京都を訪れた時、私は「貴船神社」を参拝した。「貴船神社」というと、良縁成就の神社として有名であり、たくさんの参拝者が訪れるが、私にとって「貴船神社」は、様々な伝説の残る場所である。

全国に450社以上ある貴船神社、貴舟神社、貴布禰神社、貴布袮神社、木船神社、木舟神社、また2000社以上ある龗神社、高龗神社、闇龗神社、意賀美神社の総本宮とされる。

水神である高龗神(たかおかみのかみ)を祀り、農業や電力関係のみならず、水道、飲食、醸造、染色、浴場に携わる業種の関係者からも信仰を集めるほか、火伏せの神、消防の神としても崇められてきた。

社前には賀茂川の上流に位置する貴船川が流れており、古くから祈雨の神として信仰された。

本来は「きぶね」と読むが、主祭神の高龗神が水神のため、濁らずに「きふね」と読む。

創建の年代は不詳だが、社伝では反正天皇の時代の創建としている。神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗って淀川、鴨川、貴船川を遡って、当地で霊境吹井を見つけ、水神を祀ったのが「貴船神社」の始まりとされる。

玉依姫命が乗っていた「黄船」が、社名の由来とされる。また「気の生まれる根源」が「気生根」となった、という説もある。

永承元年(1046年)7月に洪水被害で社殿が流失し、天喜3年(1055年)、現在の本宮の地に社殿を再建した。

元の鎮座地には奥宮が建てられた。奥宮では闇龗神を祀る。本殿の真下には誰も見てはならないという龍穴があるという。奥宮の境内には「御船型石」がある。これは玉依姫命が乗ってきた黄船が小石に覆われたものと伝わる。

古来より歴代天皇は、干魃の時には黒馬を、長雨には白馬を「貴船神社」に奉納して祈願していた。後に生きた馬にかえ、馬形の板に着色した「板立馬」を奉納するようになったという。これが現在の絵馬の原型とされる。

その昔、夫婦の関係に悩んでいた和泉式部が「貴船神社」に参拝した。その後、夫の藤原保昌と夫婦円満になったことから、「貴船神社」は復縁祈願の神社として知られるようになった。

室町時代の謡曲「鉄輪」は、後妻を娶った男のことを先妻が恨み、「貴船神社」に祈り、鬼になって人を襲う話である。

平将門の娘、滝夜叉姫が朝廷への復讐を誓い、祈願する場所も「貴船神社」だった。

「貴船神社」は「丑の刻参り」の発祥の地としても知られる。丑の年の丑の月の丑の年の丑の刻に貴船明神が貴船山に降臨したとの由緒から、丑の刻に参拝して願いをかけると、願いが叶うとされる。

特に、藁人形に五寸釘を打ち込むのはあまりにも有名である。今でも稀に、境内の木に人形が釘で打ち付けられているのを見かけるというが、境内の木に釘を打ち込むのは、器物破損にあたり、犯罪である。

私が訪れた時は朝早かったこともあり、参拝者はほとんどいなかった。せっかくだから御神水を汲んでいこうと思い、手持ちの入れ物がなかったので、貴船神社で水筒を買って、御神水を汲んだ。

本宮に参拝した私は、そこからてくてく歩いて奥宮に向かった。途中、中宮にあたる「結社」に参拝した。結社では磐長姫命が祀られている。縁結びの神として崇められている。

川沿いの道を歩いて行くと、途中、人の行列に出くわした。一体何の行列だろう、とちらちらチェックしてみると、川床で食事をするために、みなさん並んでいたようです。

中宮からさらに歩くと、奥宮に辿り着いた。時間も早かったので、のんびり参拝することができた。

参拝を終え、再び本宮の前を通ると、これから結婚式を行うと思われる人々が、集まって写真を撮っていた。

神社を参拝した時、結婚式に遭遇するととても縁起がいい、という話をよく聞く。

「貴船神社」には水占みくじというものがある。空欄だらけのおみくじの紙を境内の霊泉に浮かべると、字が浮かんでくる。こちらのおみくじは、大凶が存在することで知られている。

私はドキドキしながら紙を水に浮かべた。結果は、末吉でした。