昨年、私は香川県を旅行した。その時、訪れたのが「金刀比羅宮(ことひらぐう)」である。

「金刀比羅宮」は香川県の象頭山中腹に建つ神社で、全国に約600ある金刀比羅神社、琴平神社、金比羅神社の総本宮である。「こんぴらさん」の名で知られる。

農業、殖産、医薬、海上保護の神として信仰される大物主神と縁切りで有名な第75代天皇の崇徳天皇が祀られている。

後に本地垂迹説(八百万の神々は仏様が化身して現れた権現である、という思想)の影響を受け、仏教の金毘羅(クンビーラ)と習合し、「金毘羅大権現」と改称した。

もともと象頭山は瀬戸内海に浮かぶ島だったという。そこに大物主神が行宮を造ったのが「金刀比羅宮」の始まりとされる。

創建には諸説あり大宝元年(701年)10月、晴れ渡った青空から一竿の旗が舞い降りて、象頭山に立ったため、大物主神はこの地に宮を建て「旗宮」とした。その跡に大物主神を祀る宮を建て「琴平神社」と称したのが、始まりとされる。

また大宝年間、役小角が象頭山に登った際、金毘羅(クンビーラ)の神験に遭った、という伝承から「金毘羅大権現」になった、という説もある。

保元元年(1156年)の保元の乱で敗れた崇徳天皇は、讃岐国(香川県)に流される。崇徳天皇は金毘羅大権現を崇敬し、崩御された翌年(1165年)、崇徳天皇の霊を合祀した。

1573年(元亀4年)宥雅が金毘羅堂を建立するが、1579年(天正7年)に長宗我部元親が侵攻してくると、宥雅は宝物などを持って堺に避難する。

長宗我部元親は土佐から連れてきた宥厳を院主にして、1584年(天正12年)に二天門を建立した。

1600年、宥厳が土佐に呼び戻されると、弟子の宥盛が跡を継ぎ、荒廃していた境内を整備した。

宥盛は死の直前、神体を守るために天狗に変身したと伝わる。この天狗は「金剛坊」と呼ばれ、讃岐三大天狗(八栗寺の中将坊、白峯寺の相模坊)の一体に数えられている。

1642年(寛永19年)に高松藩主が徳川光圀の兄、松平頼重に交代すると、徳川家より崇敬を受け、1651年に仁王門を新築、1659年に本社が造営された。

江戸時代中期には「金毘羅参り」が流行し、参拝に行けない人が飼い犬に初穂料や道中の犬の食料などを首にかけて代参させるという「こんぴら狗」も流行ったという。

19世紀中頃以降は、海上交通の守り神、漁師、船員など海事関係者の崇敬を受けるようになった。

戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭や、戦後の日本特別掃海隊の殉職者慰霊祭も行われている。

私は琴平駅で電車を降りると、てくてく歩いた。朝は気持ちよく晴れ渡ったいたが、琴平駅に向かう電車の中で強い雨に降られた。

駅を出て歩き始めると、すぐに雨はあがった。歓迎されているのかな、といい方に考えながら、やがて私は参道の階段を登りはじめた。

「金刀比羅宮」の階段は有名で、本宮まで785段ある。私は前年、山形の山寺立石寺(1015段)や羽黒山(2446段)の階段を経験していたので、数字だけ見たらたいしたことないな、と感じた。

が、上り始めるとなかなか傾斜がきつい。一段一段が微妙に高く、足に負担がかかる。途中、こんぴら狗の象や神馬を見ながら休憩し、本宮に到着した時には汗だくで息がゼイゼイいっていた。

ちなみにこの石段をコースにした「こんぴら石段マラソン」は毎年開催されているという。

本宮にお参りをして、社務所で幸福の黄色いお守りをいただいた。

さて、この有名なこんぴらさんの階段は本宮で終わりではない。さらに先にある奥社まで続いている。そこまで上ると階段は1368段になる。

奥社と呼ばれるのは「厳魂神社」で、祀られているのは金剛坊宥盛である。その途中には崇徳天皇を祀る白峰神社もある。

行きたい。が、身体がきつい。時間も予定より押していた。申し訳ない、と思いながら、私は上ってきた階段を降りることにした。

また行く機会があったら、次は必ず奥社までお参りします!