京都を旅行した時、金閣寺で有名な鹿苑寺を訪れた。入り口を通って金閣舎に向かう途中に、ひっそりと石塔が建っていた。
この石塔は、「浄蔵(じょうぞう)」の供養塔である。「浄蔵」は平安時代中期の天台宗の僧で、「浄蔵貴所」と呼ばれる。
「浄蔵」は寛平3年(891年)、三善清行の8男として産まれた。7才の時に仏門を志し、宇多天皇に師事して12才で出家した。
比叡山で玄昭に密教を、大慧に悉曇を学んだ。天文、薬学にも通じていた。特に加持祈祷に優れていたという。数々の逸話が残されている。
醍醐天皇が腰を病んだ時、「浄蔵」が加持祈祷を行うと、すぐに治ったという。その後、宇多上皇が袈裟を送ったが、「浄蔵」はその衣を着て火をつけると、袈裟だけが燃え尽きてしまう。「浄蔵」は、血に汚れた婦人が裁縫したので焼けてしまった、と答えたという。
光孝天皇の第一子、是忠親王が病気で死んでしまう。「浄蔵」は救いを請われ、火界呪によって加持祈祷を行い、是忠親王を蘇生させ、4日間生きながらえさせたという。
師匠の玄昭は、妖怪小僧となった真済に襲われ苦しめられていたが、「浄蔵」の加持祈祷により、真済を退けたという。
延喜9年(909年)、菅原道真の怨霊に悩んだ藤原時平に祈祷を行うと、時平の両耳から2匹の青龍が頭を出した。願くは時平に厳しい戒めを加えてこらしめよ、と青龍に言われ、「浄蔵」はその場を立ち去る。藤原時平はまもなく死んだ。
延喜18年(918年)、「浄蔵」の父、三善清行が死去した。「浄蔵」は葬列が通りかかった橋の上で加持祈祷を行い、三善清行を蘇生させたという。この橋は「戻橋」と呼ばれるようになった。
天慶3年(940年)勅命により、平将門の乱を調伏するため、「浄蔵」は延暦寺横川にある首楞厳院で三七日(21日間)の大威徳法を勤行し、乱を鎮めた。その時、平将門は弓矢をおびて燃え盛る炎の上に立ちはだかった。僧兵は恐れたが、流矢の音が聞こえ、平将門は東を指して飛び去ったという。
天暦8年(954年)日照りが続いた時、村上天皇の勅命により、「浄蔵」は雨乞いの加持祈祷を行い、雨を降らせている。
天暦10年(956年)法観寺八坂の塔が西に傾くという事件が起こる。「浄蔵」は加持祈祷により、塔を元に戻した。
その他にも、大きな石を祈念により上下に動かしたり、盗賊を退治したり、逸話の数はきりがない。
康保元年(964年)11月21日、74才の「浄蔵」は、京都の高台寺付近にあった雲居寺にて、安らかに死去する。
その夜、寺院の周りには光が輝き、光の中に不動明王が現れ、児童2人が左右について、霊香が漂い、花が降り注ぎ、西の空へと消えていったという。
「浄蔵」の供養塔は鹿苑寺以外にも、京都の鎌達稲荷神社と山口の鏡山神社にも残されている。
祇園祭の山車のひとつ「山伏山」では、「浄蔵」が大峯山に入る時の山伏の姿を表しているという。
京都を歩くと、法観寺八坂の塔が古都の雰囲気を醸し出している。その近くには、960年に「浄蔵」が開基したと伝わる金剛寺八坂庚申堂が建っている。













