今年の3月、京都を旅行した時、「東山 慈照寺(とうざん じしょうじ)を訪れた。

「東山 慈照寺」は臨済宗相国寺派の寺院で、観音殿の銀閣があまりにも有名なため、「銀閣寺」の名で知られる。正式名称は「東山 慈照禅寺」である。

釈迦如来像を本尊とし、鹿苑寺の金閣、西本願寺の飛雲閣と共に「京の三閣」と呼ばれている。

室町幕府8代将軍の足利義政は息子の足利義尚に将軍職を譲った後、文明14年(1482年)から東山山荘(東山殿)の造営を始めた。場所は応仁の乱で焼失した浄土寺の跡地だった。

当時、応仁の乱(1467年〜1477年)が終わった直後であり、京都の経済は疲弊していた。にもかかわらず、足利義政は庶民に臨時の税金や労役を課し、義政自身は書画や茶の湯を親しむ風流な生活を送っていたという。

義政の妻、日野富子は資金援助を一切しなかったという。日野富子は応仁の乱の引き金を引いた人物といわれ、悪女、天下の悪妻などの名で有名である。

造営が完了するのは8年後だが、義政は工事開始の翌年(文明15年=1483年)には移り住んだという。

観音殿(銀閣)が完成したのは延徳元年(1489年)だという。

延徳2年(1490年)1月、足利義政が死去すると、菩提を弔うため、東山殿を禅寺に改め創始されたのが「慈照寺」である。

寺号は義政の院号である「慈照院殿」にちなんでつけられた。

1550年、将軍足利義輝と三好長慶が戦った天文の兵火により、慈照寺はほとんどの建物を焼失する現在、当時のまま残っているのは観音殿(銀閣寺)と東求堂だけである。

江戸時代に入り、1615年頃から大規模な改修工事が行われた。観音殿と東求堂以外の建物は、その時に再建されたものである。

慈照寺の観音殿が「銀閣」と呼ばれるようになったのは、江戸時代以降だといわれている。

鹿苑寺の金閣には金箔が貼られているが、銀閣に銀箔は貼られていない。その理由には諸説あって、幕府の財政事情、完成前に足利義政が死去したから、外壁の漆が日を受けて銀色に輝いて見えたから、長い年月を経て銀箔が剥がれた、などなど。

平成19年(2007年)1月5日に行われた科学的調査の結果、創建当時から銀箔が貼られていなかったことが明らかになった。

私が訪れた時は、土曜日だったこともあって、たくさんの観光客であふれていた。とくに外国人観光客が多かった。

銀閣寺こと慈照寺は、平成6年(1994年)12月17日に「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。

入り口では金閣寺同様、チケットの代わりにお札をいただける。

私が銀閣寺を訪れたのは、中学校の小学旅行以来だった。何か当時のことを思い出すかな、なんて思いながら巡っていたが、何ひとつ記憶に残っていなかった。

2度目なのに新鮮な気持ちで参拝できました。