私のお気に入りの妖怪図鑑「絵でみる江戸の妖怪図巻」(善養寺ススム)を読んでいたら、「果進居士(かしんこじ)」が紹介されていた。


「果進居士」は「果心居士」「因心居士」「七宝行者」とも呼ばれる室町時代末期の幻術師で、様々な書物で紹介されているが、実在したか怪しい。


「居士」とは、在野僧侶を指す号である。


安土桃山時代末期のものとされる愚軒による雑話集「義残後覚」には、「果心居士」は筑後の生まれと記されている。

「義残後覚」によると、「果心居士」は大和の興福寺に僧籍を置きながら、幻術に長じたため破門になっている。

また「玉箒木」では、奈良の元興寺の塔に上った話が紹介されている。

「果心居士」が持っていた絵を織田信長が欲しがったが、「果心居士」がゆずらなかったため、信長の家臣が斬り殺した。絵は信長の手に渡るが、信長がその絵を広げると、白紙だったという。

しばらくして、死んだはずの「果心居士」が現れたと知り、信長の前に連れて来られると「正当な代金をお支払いくだされば、絵は元の場所に戻ります」と言った。

信長が金百両を払うと、白紙の画面に絵が戻ったという。

松永久秀が「果心居士」を呼び、俺に恐ろしい思いをさせることができるか、と挑んだところ、数年前に死んだ久秀の妻の幻術を出現させ、久秀を震え上がらせた。

明智光秀が「果心居士」を屋敷に呼んで酒を振る舞った時、酔った「果心居士」は屏風に描かれた湖水に浮かぶ小舟を手招きした。

すると屏風から水が溢れ出し、「果心居士」は小舟に乗り込むと、舟は再び絵の中に戻り、小さくなって姿を消したという。

天正12年(1584年)6月、豊臣秀吉が誰にも言ったことのない過去の行いを「果心居士」が暴いたため、捕らえられて磔にされたという。が、「果心居士」はネズミに姿を変えて脱出し、そのネズミをトビが咥えてどこかに飛び去ったという。

江戸時代の柏崎永以の「古老茶話」には、慶長17年(1612年)7月に「果心居士」というものが、駿府で徳川家康の御前に出た、とある。

家康から、いくつになるぞ、と尋ねられ、88才と答えている。

その他にも、猿沢池の水面に笹の葉を放り投げると、笹の葉がたちまち魚となって泳ぎだした、という話や、男の歯を楊枝でひとなですると歯がぶら下がった、伏見で人を驚かしたり、広島で借金をしたが顔を変えて逃げた、といった話が残されている。

芥川龍之介の「煙草と悪魔」には「松永弾正を翻弄した例の果心居士と云う男」という一文がある。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の「日本雑録」や石川鴻斎の「夜窓鬼談」、中山三柳の「醍醐随筆」などでも紹介されている。

司馬遼太郎の「果心居士の幻術」では、幻術に長けた忍者、と紹介され、筒井順慶を翻弄していた。

漫画「NARUTO」の続編「BORUTO」にも登場していた。

井原西鶴の「織留」には「左慈道人、我朝の果心居士」と記されている。

柴田宵曲の「果心居士」には「英雄の武力、権謀術数が何の威力も発揮し得ぬのが、左慈とか、果心居士とかいう人道の住む世界なのである」と記されている。

ここで語られている「左慈道人」とは、中国の後漢時代の呪術士で、「三国志」に登場することでその名を知られている。

「三国志」における「左慈」は、曹操を奇妙な呪術により翻弄し、曹操は病に伏せてしまう。

私が初めて「果心居士」の話を知った時、すぐにこの「左慈」のことが頭に浮かんだ。ひょっとしたら、「左慈」の話を元に「果心居士」の伝説は生まれたのかもしれない。