“終末の雨は涙色”改め“再生への風”

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“西暦2024年8月11日”

 朝のドラマにサイコパスが疑われる少女が登場している。朝にこれは少々冒険かなと思わないでもないが、逆にだからこそ興味深いという感想もある。扱いが難しい事例であることは承知の上で敢えて取り上げたのだろうから今後の展開が注目される。こういう人間型は、人間現象において突出して特異なものの一つなのである意味人間とはなにか?に対するヒントのようなものを与えてくれる面もあるのではないかと思われる。サイコパスは、反社会性パーソナリティ障害の一つとされているもので、生来的な条件に生育環境からの影響が重なって発現するのではないかと推測されているようだが解明にはまだまだ遠い事例としてさらなる研究が求められているようだ。要するに実に厄介だということだ。大きな特徴の一つが、標準的なタイプには普通にある人間らしい情動、喜怒哀楽取り分け他者の痛みへの共感性がほぼ絶無というところだ。そこに底知れぬ恐さがある。言うまでもなく人格病理として扱われるべきものなのだろうが、今のところ妄想性パーソナリティー障害などと同様有効な治療法は見つかっていないようだ。現状では治療困難な障害と受け止めるしかないということだろう。実に厄介だ。こういう人格障害群と社会がどう向き合っていくかを考えると気が遠くなる思いだが、できる限りのことをやっていくしかないだろう。彼らが私たちヒトを照らし出す一方からの光であることは間違いない。厄介がるばかりではなく、そこにある悲劇をも見なければわれわれを丸っとヒト-人間と呼ぶことはできないだろう。彼らと人間として向き合い遇すること、それがわれわれの「人間である」ことを強化しないはずがないと信じることだ。

 一人の少女の登場によってあれこれ思ううち、私自身の考えにも光が当たったようだ。といっても特段新しい発見のようなものがあったわけではない。一言で言うなら、やはり人間とは人間という物語であり所詮は人工物なのではないかということだ。分かるようで分からん言いようになったかもしれないが、そういうことではないかと思う。だが、一つ確実に言えると思うのは、世界は人間を超えているということだ。これも今さらの言い草になるがしみじみそう思う。そんなこんなを思い浮かべながらあちこちうろつくうち、地球における生命現象というものは超複雑に絡まり合った一つの犠牲(むろんこういう言い草もあくまで人間的なものでしかないのだが)のサイクルなのだという端的な図式にぶつかった。草原の草を食べてウシは大きく育ち、ライオンにむしゃむしゃと食べられたウシはライオンの一部となり、ウシを食ったライオンもいずれはその生を終えて地に還り粉々に分解され大小様々な生命種の生命へと吸収変換されていく。そしてウシにもライオンにもこのサイクルに参加する大小様々な生命種すべてにもその認識も自覚もない。彼らの生の無邪気はどこまでも純粋だ。そこに悪意や害意や利害勘定や貪欲など微塵もない。必要なだけ食べ、貪ることも蓄えることも知らない。ましてや余分に得たものを他人に売りつけるなどということもしない。どこまでも彼らの生とその日々は自然的節度の枠の中で清潔そのものだ(まさにその見かけの凄惨さに反して)。どうだろう、こういう場所から人間とその文明のあり様を無心な目で見つめるとき、その異様さに慄然としないだろうか? そこにどこか異界からはるかに届くような声が聞こえる。“どうして悪い人間を殺してはいけないの?”。どうだろう、私がさっき言った標準的な人々こそ、戦争というおぞましい祭りに熱狂し、戦場で互いに惨たらしく殺し合っているのではないだろうか? 敵に殺された肉親の仇を討つために戦場に趣く者たちの中で激しく逆巻く怒りと憎悪。さっきの質問をした同じ者の口からこう吐かれても不思議ではないのだ。“どうしてあなたたちはそんなに相手を殺したがっているの?”。喜怒哀楽、われわれヒトの豊穣な感情生活、その裏面にはべっとりと血のりが張り付いている。サイコパスとされる彼らは確かに普通ではない。だが、だからゆえの意想外な方向からの素朴な疑問を投げてもくる。“他人の痛みが分かるの分からないのって言っているクセにその何倍も他人を羨み恨み憎み呪ってる。それどころか、互いに殺し合っている。それって可笑しくない!?”。

 倫理は理性の産物ではない感情の産物である。私が常々いっていることだ。『アカルイミライ』という映画の中でオダギリジョー演じる若者が弁当屋さんの店先で自分の弁当のカラアゲが他の客のものより小さいと言って執拗にゴネるシーンがある。実に象徴的だ。正義とか平等とか抽象概念というものはこの世のものとは言いにくい。だが、われわれヒトの脳内にあるということで言えば、この世のものではないと言い切ることもまたできない。やれやれだ。どちらにしろ、概念というものはパンやワインのような「もの」ではない。考えるとか思い浮かべるの類の思念想念であって、われわれヒトが考え出したルールに則って思念上そこに存在しているだけだ。この類のものは一体どこからやってきたのだろうか? その本源こそヒトという生き物の私意識革命ではないかと私は考えている。私的領域と外世界への完全分離という形で獲得した自他分断世界構造を生き始めたことにすべての原因があるということだ。これはいわば一つ個別生命現象体が世界から独立すると宣言したようなものだ。ヒトは誰もが世界の中で自分という例外的特殊領域に立てこもっている。世界から絶対疎外された固有場、絶対孤絶の幽閉の館の主として。問題はカラアゲの大きさではないのだ。本質問題は、“私がワリを食わされた!”という事実と事態にある。そこに怒りがあり、それが許せないということだ。どこからどこまでも〔わたし〕がすべてなのだということ。人間の感情がここまで豊かになったのは、そこに〔わたし〕が発生したからに外ならない。私のもの、私の家族、私の仲間、私の国、私の悩み、私の夢、私の怒り、そし私のプライドなどなど、〈私の〉が付くものはなんでもかんでもだ。挙げれば切りがない。平等とか正義のような普遍的倫理価値や理念群はこういう理不尽や無礼や不公正や不平等が起きる世界そのものへの怒りや不満に発している。その最たるものが死の宿命だ。中でも激烈な怒りが向けられるものこそ愛するものを奪い去る世界原理であり宇宙の法則だろう。われわれヒトは基本的に世界を許していないのだ。この決定的に悲劇的な本質にある世界に向かって常に永続的な怒りをたぎらせている。ここにわれわれヒトの残忍さの本源があるのではないかと私は考えている。われわれは日常的にこの慢性的な憤怒のマグマを見て見ぬふりをしているだけなのだ。理由は、それが死の必然の認識と避けがたいセットを為しているからだ。ここまで言えば分かるだろうが、本当のところは、種として突入した私意識という次元飛躍的革命がもたらした悲劇性の本源責任性をわれわれヒトの側が世界に転嫁しているだけなのだ。この事態の責任を負うべき世界なるものなど実はどこにも存在していない。それはわれわれの私意識とセットとして出現したものにすぎない。われわれはわれわれという種的集合ドラマの中で、大袈裟に言うなら幻覚と錯覚と妄想による混乱状況で慢性的なパニックに陥っているだけとも言えるだろう。もう一度野生の世界を思い返してみよう。私意識を持たぬ生命種たちはただその日々を純粋な生命現象として無心に生きているだけだ。その無心の大河ドラマはこの天体上の生命現象すべてが一つの生命現象体をなしているかのようにさえ見える。そこに個別生命現象体の尊厳とか平等の原則のようなものなど存在していない。むしろ、いつでもどこでも現象は唯一的で特別で例外的なものとしてそこで現象している。あくまでも総生命現象体の一環として。常に世界は唯一無二の瞬間事態としての現在時を持続しているだけだ。そこにあるすべてが連続する総現象としての生命体、これにそもそも主体など存在しない。誰のものでもないし、どこかの誰かでもないのだ。尊厳とか平等などという概念が如何に異様なものであるのかということだ。

  “ゆれてゆれているうちにある一点が見えてくる”。誰かの詩の一節だが、今ふと思い出された。当時はまだ明確ではなかったが、今の時点ではこう考えていいのではないかと思う。普遍世界のゼロ点。言うまでもないだろうが、われわれの思念界にだけ存在する究極の人工物だ。だがこれがわれわれの正義のありどころではないかと私は考えている。それはかつては神の座だったが、神は長い人類史の中で散々利用された挙句いつしか葬り去られてしまった。その空席を埋めることができるのは絶対無私の眼差しだけ、それを私は“普遍世界のゼロ点”と呼ぶことにした。われわれヒトという生き物の内面に起きている波立ちは、地球という天体上で営まれる総現象の海の上に発生した陽炎のようなものであって、そのままでは如何にも危うく頼りないものだ。それは世界に深々と下ろしたアンカーによって世界そのものとつながっている必要がある。その地点こそわれわれヒトの精神現象がその根拠としてそこに存在することを命じる普遍世界の中心点だ。すべてはそれを支点としてゆれている。それは、この宇宙世界すべての悲喜劇に注がれる分け隔てのない憐みの眼差しでもある。この宇宙のどこにも存在しない眼差し、だがその眼差しだけがわれわれヒトを誰一人取りこぼすことなく丸っと救うことができる。あらゆる悲痛が憐れまれる。あらゆる悪行が憐れまれる。あらゆる病が憐れまれる。それはこの世界のすべての現象が絶対平等の原理と法則に従って現象しているからに外ならない。その絶対平等ゆえの凸凹でありバラツキであり個々体の絶対的孤絶の運命なのだということだ。どうだろう、このすべてが尊厳そのも荘厳そのものなのではないだろうか?

 われわれは様々な相違の中で生きている。私意識次元に突入したということは違いが分かる男になったということだ。違うということの絶望的な感覚が幸せも腹立ちもつれてきた。仕方なかったのだ。世界には大きさというものがあり量というものがあり質感というものがある。互いに違うということ、それは性的マイノリティーに限らない。様々な事由や事情で実に様々な人間型が発生している。そのすべてが自然現象だ。世界のできごとだ。われわれはまず起き得ることが当たり前のように起きているだけなのだという認識に落ち着いてすべてと向き合う必要があるだろう。相互理解だけがヒトではない。イヤ違う。われわれは互いに絶対的に理解不能の溝を挟んで愛し合っているだけなのだ。愛と憎しみは同じものだ。そして究極私たちはなにも分かってはいない。永遠に分かったつもりでいるだけ。そのことに腹の底から気づくべきだろう。個別の私意識点において辻褄が合うということもない。あらゆる地点において憤懣と矛盾と理不尽への怒りが渦巻いている。辻褄は総現象全体にだけ特権的にあるものであって、如何なる個別点においても完全了解などあり得ないのだ。対立も分断も疎外もすべてがススキの影にすぎない。われわれは如何なる方法を用いても個別現象を取り出すことはできないのだ。すべてがつながり合っているということはそういうことだ。〈わたし〉という迷妄の船が海を渡っていく。それだけの眺めでいいではないか。海は広い。すべてを包み込んでたゆたっている。生命を生んだ海。産み?・・・なるほど。思いが向かうままにつづればこうなる。学問とか研究とか、そんなものとは一切無縁の遊びだ。納得したいのか、ストンと腑に落ちたいのか、まあなんであれ終われないということだろう。どこかにしっかりと座礁する。それまでは航海はつづくということか? やれやれであります。合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“今日という日の無題”

 公僕とか下僕とか、もう随分前丁重な葬送の儀式とともにはるか彼方へと見送って久しい方々だ。われわれ非力な庶民にその真相を知るすべもないので、“総合的俯瞰的”な推測に立って想像してみることくらいのことしかできないのだが、まあ凄まじい現状ではある。なにやらは乱用され、なにやらは貪られ、なにやらは肥やされ、なにやらは懸命に無理やりに守られれる。まさに十八番の忖度ハラスメント劇場は大入り満員札止めというあり様だ。誰もが雲の上からの怒鳴り声に脅え切り、上方からトロトロと垂れてくる甘いものに殺到している。麗しき建前など遠い昔の干からびた廃棄物。ミンシュシュギというお人が泣きながら駆け去っていったわけだ。悲鳴を上げ、抗議の声を上げ、見過ごせぬと訴えた人たちが一人ひとり滅ぼされてゆく。次から次へとつづく圧し潰された人々の憤死。こういう凄惨な状況がここではもうずうっと以前からつづいているのだ。われわれの慢性病は死ぬほど重篤だ。皮肉でもシャレでもない。端的な事実だ。われわれは充満する濃厚な死の気配の中にいる。腹を据えるべきだろう。われわれはキチンと礼儀正しく病んでいる。皮肉でもシャレでもない。端的な事実だ。そうではないか? 丁重な口調のしかし決してキチンと礼儀正しく心からの謝罪をしようとしない人たちの光景は今やここではごくありふれた光景だ。無事で済むはずがあるまい。

 なにに気兼ねし、なにに気づかい、なにに遠慮し、なにに配慮し、なにを恐れ、なにを庇い、なにに阿ってその死はただ「死亡」という用語で伝えられているのだろうか? とんでもない犯罪が起きているのに人権に配慮して当該行政に通知すらしない。被害者にも近親者にも現地に暮らす大勢の住民たちにも注がれる心からの優しさが死ぬほど嬉しい・・・わけなんかあるまい! ものは言いよう、言い抜けよう。シレッとした顔つきで繰り出されるごタクの数々。ある意味想定内だから驚きや困ったことに妙に怒りすら湧いてこない始末だ。なにかが磨滅し、なにかが歪み、なにかが壊れ、なにかがすでに滅びている。われわれの慢性病は死ぬほど重篤だ。皮肉でもシャレでもない。端的な事実だ。われわれはドヨンと重い非人道的な風の中にいる。だが勘違いしてはいけないだろう。私たちはなにかを失ったわけではないだろう。私たちは私たちの現実をただ無邪気に知らなかっただけだ。“民は之これに由らしむべし之を知らしむべからず”。孔子さんが愚民統治を言ったわけがあるまい。真正な愛に溢れた為政者だからこその心構えを言ったまでだろう。為政者はその重い責務の遂行に全精力を傾けるべきであり、様々な労苦を重ねながら日々を懸命に生きる人々にそれ以上余計な気苦労をかけるのは無能な者のやることだ、くらいの意味だったのではないだろうか。政権党の重鎮が当のトップを選ぶ選挙に出るか否かを問われ、仲間たちのため立つべきかどうか機会が来たら答えを出す。きっと好い仲間なのだ。麗しい。で、国民は? やれやれ、とんだ愚問ではあった。われわれの慢性病は死ぬほど重篤だ。皮肉でもシャレでもない。端的な事実だ。われわれはトロリといい加減に発酵したサル酒の中で昼寝でもしていたのだろうか? 妙に頭がクラクラしている。そんな眩暈の中心点から明瞭な輪郭線をまとった今の世界が見える。そこから吹きつける風はひたすらきな臭い。われわれニンゲンの慢性病は死ぬほど重篤だ。皮肉でもシャレでもない。端的な事実だ。それでもなんとか無事にオリンピックは開催中だ。それはきっとすこぶる良いニュースなのだ。風にも色んな風がある。悲喜こもごもの日々をただ淡々と刻んでいこう。明日宇宙がその歴史を閉じるのだとしても。それにしてもなんでまた企んだかのように「+90」で止まるかな~? 軽いジョークであります。すべての選手諸君の健闘を称えて。合掌。

 

 

“Memento morbum”

 正義という概念も所詮はわれわれヒトの想念城の住人に過ぎない。現実に存在するわけではない。だからややこしくもあるし、また悩ましくもある。社会正義と言えば聞こえがいいが、その社会も実は実体があるようで実に怪しい代物だ。昔から口にされる言葉に「本音と建前」というのがある。適切な言い換えになるかどうかは分からないが、「ぶっちゃけ話と前提となる麗しき理念」。あらゆる職業にもこの「本音と建前」問題はある。例えば、業績至上主義と社会的責務。今の世の中に溢れる不正や不祥事。敢えてその一々を挙げることはしない。したくない。ただこれは言っておきたくなった。“その人を責めるのではなく、そういうことが起きているここという場所の重い重い病を思え!”と。その一つの象徴的な根深い習俗である女性差別。この背景にあるものとその他の忌まわしい不正不祥事の背後に広がるものと根は一緒ではないかと私は考えている。よくよく思い返してみて欲しい。ここで不当に扱われているのは女性だけだろうか? “国に逆らえばどうなるか本当に分ってるのかッ!?”。今のこの時代にこんな恐ろしいセリフが記録されることを承知で吐かれる社会。それが不心得な一人の人間の病理に止まるものであるのかどうか、問うまでもないのではあるまいか?

 何度も言ったことだが、ここが民主化されたことなどただの一度もない。なぜそうなのか?なぜこういうことになったのか?正直分からない。だがここにはいつからか頑として変われない理念塊のようなものがまるで宇宙大のアンアカーかのようにでんと居座りつづけているようだ。これがある限りわれわれは世界の潮流からは遊離した海域をひとり孤独にさ迷いつづけるしかない。多分そういうものはどの地域にもあるものなのだろう。そしてそれぞれが特別で特殊なのだ。だから恐らく共有できる処方箋も存在しないだろう。それぞれの病にしか効果のないクスリをそれぞれが開発するしかないということだ。とりわけ外からの強力な働きかけで社会構造を基礎から変更するという体験をしてしまったことがここの病をより厄介なものにしてしまったようだ。奪われたものへの郷愁と幻覚と妄執肥大。ある意味余計なことをしれくれたものだと思わなくはない。結局はあちらさんのご都合主義で為された見せかけ上の改革でしかなかったという歪んだ背景事情が返って真実変えなければならなかったものを冷凍保存してしまったようだからだ。世界にも名の知れた高名な作家が終生執着したものと、そして心底から恐れたもの、その乖離と矛盾の自己同一の絵柄が粉々にひび割れた巨大な鏡面かのようにわれわれの前に立ちはだかっている。まるであの大ガラスかのように。

 多くの人々一人ひとりはか弱く小さな生き物だ。世に流されながらしか生きようがない。長い物には巻かれ、腹の中では舌を出しながらニコニコ笑って生きていくしかない。だから、恐ろしいことができる・・・いや恐ろしいことをやってしまう。“その人を責めるのではなく、そういうことが起きているここという場所の重い重い病を思え!”。非力な庶民の私たちにできることは限られている。私は個人的な考えとして集団でする運動のようなものにもさほどの希望は抱いていない。大概の場合そこにはプチ社会が発生して権力構造が姿を現すだけだからだ。そして大概本質的ではないことに精力を削り合い衰弱し終わってゆく。なにより大事なのは一人ひとりが見つめつづけ見抜きつづけ考え抜くこと、それこそが究極のバタフライエフェクトではないかと私は考えている。それをしつづけていたのなら妙なお調子者に浮かれたりは決してしなかったはずだ。なにより大事なのは、借り物頂き物ではない感応力と見えていないものを見透かす視力だ。自分を生きているという感覚ほど怪しいものはない。まずそれを疑うことができるかどうか? どうだろう?〔わはし〕がいないところに民主制度など意味があるだろうか? 民主とはまずそういう骨肉化された一人ひとりのセンスでなければならないのであり、そういうセンスの持ち主からは絶対に出てこないセリフというものはある。最後にもう一度繰り返しておきたい。“その人を責めるのではなく、そういうことが起きているここという場所の重い重い病を思え!”。合掌。

 

  

 

“夢・・題”

 人の世が誰にとっても都合の好い場所になることはない。今さらながら痛感する日々だ。弾ける歓喜の陰には必ずと言っていいほどの悲嘆や落胆がある。最近夢の中に「カミ」と名乗るおじさんが出てきた。唐突にやってきて唐突に帰っていったのだが、酒を酌み交わしながらとっくり語り合った中で面白いことを言っていた。

「全知全能と言われる私にだって悩みはあるさ」

―へ~、そいつぁ~興味深い。で?どんなことに悩んでるんです?

「私がここにいる理由みたいなものだな」

―エ~ッ?だってあんた神様なんでしょ?

「キミたちは随分勘違いしているようだが私がなにかしてるなんてことは一切ないんだ。私はどうやらキミたちが暮らすこの世界が生まれるとき一緒に生まれたようなんだが、その訳は分かっていない。この世界は私が創ったものとキミたちは信じ込んでいるようだが、そうじゃないんだ。むしろこうだ。私とこの世界は二卵性双生児みたいなものらしい。最近になって私はそう思うようになった」

―最近・・・ね~。あの神様が?

「そうあの神様が。・・・その上で思ったことなんだが、私とキミったちの世界ってヤツとはぴったり重なってそこにあるんじゃないか、とね。だが、異次元にあるので相互干渉は起きないってことかな。漠とそんなことを思うようになった」

―なんだか、分かったような実に分からんような話だけど、なんか日頃から思ってきたことの一部が妙にストンと腑に落ちたような気もするね。・・ま、今のところ気がするだけだけど。

「そういうふうに考えてきて最終的に至りついたのは、結局私という存在というか現象というかは、光なんじゃないか、そんな気がするんだ。光は一方の生命現象の本源と言っていい。だが、同時に光というものは否応なく影もつくる。それがこの世界ってものの本質なんじゃないかとね」

―相変わらず分かったようで分からん話だが、なんか妙に心をそそるね。光、光がつくる影‥ね。

「光であるに過ぎない私はすべてを見ているとは言えるかもしれない。だが、それがつくる影になにかできるわけじゃない。私は所詮無力なんだよ」

―だから、責任はわれわれにあるって言いたいのかい?

「そんなことは言っていない。ただ、事実・・事実らしいことを言ってみたまでさ」

 ま、他にも色々語り合ったのだが、カミっておひとは存外ざっくばらんで正直なひとだったってことは強調しておきたいね。かなり好いヤツだ。ただ普通じゃない。そういうしんどい立場なんだってこともよく分かった。いつかまた夢で会うようなことがあったら、少しは慰めてやってもいいかなとも思っている。多分苦笑されるだけだろうけどね。

 人の世は、いつもなんやかんやある。天にも上るほどの喜びに沸き立つこともあれば、身を引き裂かれるほどの悲痛にのたうち回ることもある。それがある意味当たり前なのだと腹をくくるしかない。そしてそれにじっと見つめている神の眼差し。どうやら彼だって深く胸を痛めているようだ。その痛みも少しは感じてやってもいいのかもしれない。無力な神の目で眺めるとき、このなんやかんややてんやわんやがどういうものとして映っているのか? 私たちは光というものの意味について理屈ではなく深く観想してみることもあっていいのかもしれない。果てない宇宙大の喧騒の渦の中で静かになれる境域とはどういうものか? 究極の答えなどどこにも無い。永劫に刻まれつづける唯一無二の今。私たちの「わたし」の中心ゼロ点は多分どこかでなにかと重なっているに違いない。答えのない素朴で巨大な問いの前で震えながら立っている。それも立派な葦だ。合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“熱き日々が始まりました”

“空が落ちてこようが / 地球が壊れようが / そんなことはどうだっていいの / あなたが私を愛してくれるなら”。なんとも凄まじい出だしだ。道ならぬ恋を終わりにするために書かれた詞だと聞けば、それがここまで過激なものになったことにも頷けるものはある。誰かを死ぬほど好きになるという事件は宇宙を破壊しかねないほどのエネルギーを生み出す出来事なのだ。だからそれを振り捨てようとする者は一切合切を火に投ずかのような苛烈さ要求されることになる。ピアフという人はフランス人にとってただの歌い手にはとどまらぬ存在になったようだ。多分、フランス人にとって魂の一部になってしまったということではないかと思う。それにしてもオリンピックの開会式の締めに“祖国だって捨てるわ”と歌い上げるとは大した度胸だ。むろん、オリンピックは本来は個人参加のものであって国威発揚の場ではないとはいえということだが。

 セリーヌ・ディオンが闘病中という噂は耳にしたことはあったように思うがこれを機にその詳細を知ることとなった。余りの過酷さに言葉もないが、歌うことが生きることそのもののような彼女にとってそれがどれほどのことであったかはわれわれの想像の及ぶところではない。今回あのような二つとないひのき舞台で世界に向かって復活を告げることになりさぞや万感の思いに心熱くしたことだろう。おそらく思いを同じくした多く観客も涙したのではないかと思う。彼女自身、愛する身近な人々を相次いで亡くすという辛い経験をしているようだ。あの絶唱は夜空の彼方へも届けるものだったに違いない。愛は大事だ。だが、エロスのエナジーの破壊力はまた別だ。この歌の世界で恋の詩人は死の向こうに待つ永遠のときの中で二人は一つになると言い放っている。もはや神さえサジを投げたことだろう。あらためて恋って一体なんなのだろうと思うばかりだ。ピアフという女性にとってその後の人生がどういうものだったのかは分からない。懸命に生きようとしたのだろうとは思うが、詮索しても仕方あるまい。恋と死とそして歌。セリーヌのあの神々しいまでの姿を見て目頭を熱くした人も多かっただろう。平和の祭典は愛の祭典でもなければならない。私たちは業火の中でピクニックに興じているのかもしれない。だが、そこにこそ私たちの矜持があると思い定めよう。私たちは嘘偽りなく地獄の業火の上で胸熱くしている。せめて負けないために、せめて真っ直ぐ立っているために、歯を食いしばって前を向くために。奇跡は起きない。それを覚悟して祭りを楽しめ! 愛は大事だ。それは生きることだから。彼女がそう言っている。死を超えて恋は生きる。サジを投げた神も苦笑しているに違いない。恋する人間の勝ちだ。憎むことしかできない不幸なものたちに憐れみを! 平和は勝利の先にあるのではない。フェアに闘った勇者たちがハグする瞬間にこそ溢れ出すのだ。合掌。

 

 

 

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