“ウソと憐れみのロンド-3”
「身の回りに批判者や反対者がいない(あるいは我が強すぎて批判・反対を自分にとって都合よく解釈する。ときには権力を利用して批判者・反対者邪魔者扱いして粛清することすらある)ため、本当の自分(の実力)がわかっていない人を揶揄するために用いられる。当然ではあるが、正当な批判・反論すらも聞かずに猛進するため当人が破壊的な影響を及ぼすようになり、いずれ必ず当人も組織も大きなダメージを受けるため、組織人として見た場合には非常に有害な人物になる」(Wikipedia)。出典はアンデルセンの童話集(『裸の王様』)だが、それにしても実にやれやれ的なご仁だ。だが、本当に問題とするべきは王様なのだろうか? 少年は見破ったなんていうほど大それたことをしたわけではない。ただ見えたまま(見えなかったまま)を口にしただけだ。“王様はなにも着てないよッ!”。親分が黒だと言えば、それが白かろうが赤かろうが、黒は黒なんだよッ!も同じだろう。権力は事実を曲げると言ってもいいのかもしれない。だが、幼い子供には関係のない話だ。
大勢の取り巻きたちが競い合うように王様を褒めそやす。アンデルセンそのままの光景だ。今回はその締めがふるっていた。“みなの意見はどれもよく簡潔にまとめられていた”。全員に花丸が付いたわけではないようだというのがトラ-ウオッチャーの見解だ。その心は“その程度のことしか言えないのか!? 褒めるべきところはもっと他に一杯あるだろう!”。歯の浮くような称賛の嵐を期待したのに、精々がにわか雨程度じゃつまらないとご不満だったのではないかということだ。こんな可笑しな時代が終わった後で、この人たちは自分たち自身をどう総括していくのか? 繰り返されたこういう光景を思い出しては胸を熱くして懐かしがるのだろうか?
優れた政治家や権力者というものは、耳に痛いことを言ってくれる側近を必ず一人や二人そばに置いておくものだと言われている。理由は言うまでもないだろう。その忠言が絶対的に正しいとかどうとかということではなく、自己を客観視し、状況をニュートラルな目で見つめるための鏡となり補助線となってくれるからだ。優れた政治家や権力者というものは、自己の思惑や欲望のためにではなく、同時代の隣人たちや同胞の暮らしや生命のために力を尽くそうとするからだ。そもそもそういう座に就けないことで同情を引こうなどと考える者たちに勤まる仕事ではない。
陰画のような話もある。身に一糸まとわず白い馬にまたがって町中を走った夫人の伝説だ。領民のためになぜそこまでのことをしたのか? 聖母信仰が大きく影響しているようだとも言われているが、今では伝説自体が怪しまれているようだ。麗しい言い伝えというものはそのままに信じるという素直な態度もあっていいことではなかろうか。窓も戸も閉め切って息を潜めた庶民たち。ただ一人その姿を覗き見した男も仕立て屋だったというところが一つ面白い。
褒めそやしパーティーが必ずしも真っすぐ懐かしがれないのだとしたら、それは一体なんだったのだろうか? 生涯の汚点として目を背けなればならない忌まわしい記憶として残りつづけるのだとしたら。もう一度原点に帰って考えてみよう。“私はなぜあの地位を欲したのか!?”。どうだろう? 事実を伝えて粛清の憂き目に遭っても守られるべきものがあったということ、それは一体なんだったのか? その人のなにかが守られたのだとしたら、それは一体なんだったのか? 余生を屈辱的な回想で塗りつぶされるのがイヤだったら、なにをどうするべきだったのか? 子供の純真さというものは往々にして残酷極まりないものを発揮することもある。だが事実は事実なのだ。“王様はなにも着てないよッ!”。気づいた者すべてがきちんと言うべきだったのだ。世界が破滅する前に。世界を破滅するままに任せぬ前に。苦言が言える人がそばにいるということ。誇っていい。それはあなた自身の誉れでもあるのだ。王が孤独なのではない。人は誰もが孤独なのだ。その人はあなたに本当のことを告げているのだろうか?
彼から離れる人々が増えつつあるようだ。それはやがて倍々ゲームのような様相を呈することになるだろう。一気に流れが変わる。恐いのはそのときだろう。狼狽え逆上した裸の王がどう振舞うか? 恐ろしい想像しかない。だが、その恐ろしさは、彼の所為だけとは言えないだろう。彼のためにその椅子が空位となったとき始まっていたものだ。必然の混乱を前に私たちは戸惑っている。だが誰かの所為ではない。そこにある歴史的必然の法則に目を凝らすべきだ。私たちは、いつも肝心なものが目に入っていない。びっしりと固いウロコで覆われた目で一体なにが見ていたのか? 取り返しがつかない段階になって気づいたって遅いのだ。“王様はなにも着てないよッ!”。自分の目が見たままを信じる方法は一つしかない。死を覚悟することだ。その覚悟の先に光がある。合掌。
“ウソと憐れみのロンド-2”
いよいよ世界はきな臭くなってきた。要は、“勝てばいいッ!”のだ。そのために仲間を増やし、相手を叩き潰す名分を整える。それだけのことだ。各国の首脳たちが活発に行き交い、それが報じられ、それがさらに緊張を高め、それぞれの地域で人心が単純化され熱を帯び、各々の社会の暗がりであの忌まわしい祭りの準備が着々と進められる。こうなってはどれほどの数であれ非力な一般市民が反対を叫んで街を練り歩いたところで止められるわけがない。蒸気機関車を引くにはどれだけのヒヨコが力を合わせればいいですか? 答えは明解だ、問うまでもないだろう。それが非力だということだ。それはすでに始まっているか?近いうちに始まるか?奇跡的な展開によって寸前で終わるか?われわれの運次第だ。
われわれにその祭りを止めることができるとしたら、各々の社会がそもそもそういう情勢に陥らぬよう!を最優先に政治に取り組む政府を持つことだけだ。ここに決定的でそして皮肉な「ニワトリか卵か」がある。民度高く民主的な市民によって社会が営まれていれば言葉としての「民主」など不要であり、殊更に民主化を言わねばならないところほど非民主的であるという皮肉だ。つまりは、止められなかったのではなく“止めなかったッ!”ということだろう。今世界中に戦前という空気が充満している。第二次の前夜の世界もこういう状況だったのだろう。危機感を抱き反対を叫んだ人々はいたのだ。ひしひしと迫る凶事に怯え、猛烈な向かい風に圧倒される無力感に苛まれながら。今の私たちがそうであるように。
覚悟しようがどうしようが、来るものは来るだろう。そういう生き物に属しているのだということを宇宙大の達観とともに噛みしめるしかない。実にそういう生き物なのだ。逆上と損得で殺し合う。実に馬鹿げているが、われわれはそういう椅子取りゲームを繰り返しながら今日までやってきたのだ。“ワリを食いたくないッ!”その一念で突っ込んでゆく。ワッショイ!ワッショイ! ジェット戦闘機やミサイルや雲霞の如きドローンが飛び交い、街は焼かれ、破壊され、大勢の市民たちが逃げまどい、敢え無く命を落とす。“戦争犯罪”。この言葉を耳にするたびにいつも苦い笑いにもならぬ笑いに襲われる。ヒトは奇妙でそして絶望的に皮肉な生き物なのだ。“正当なる防衛的殺戮”も同様だ。この次元を超えない限り、われわれの笑劇的悲劇は終わらない。そしていつも相手が敵がどこかの誰それが悪いのだ。悪なら害虫を駆除するように叩き潰しても構わない。こういう人倫の枠を堂々とはみ出した論理がまかり通る限り、われわれの笑劇的悲劇は終わらない。いつまでも狡賢いサルのままということだ。「人倫」という言葉が殊更に必要されるところには決して存在しない人間という生き物の姿。ヒトが群れの次元を超脱しない限り不可能なこがあるということだろう。それはどこかニーチェ的な構想を思わせる。しかしそれは結局夢想の境域にとどまるものなのだろう。見る限り、われわれは中途半端に小利口なサルにすぎない。小利口狡猾なサルの撒き散らす正直な主張の喧騒ほど聞き苦しく醜悪なものもない。ただ一つ、それでもなお身勝手!と侮蔑されることはイヤッ!なのだ。歪んだ笑劇的でガキっぽいナルチシズム。だから言説が捻じ曲がる。サルに大人の分別はない。人間だけが分別を云々できる。ゴッコと凄惨な血なまぐさい祭りの区別がなくなる。十二分に笑劇的に悲劇的だ。敵か?味方か? この分断意識がすべての惨劇の基にはある。ヒトはトラやヒョウのように孤独には生きられないのだ。あのロビンソンだって独りではなかった。・・・・・しかし、だから向き合うことになる敵たち。実にうんざりな話だが、そういう生き物に属しているのだ。まずはそうと受け止めるしかない。だから勝てばいいとは思わないまでも。
われわれは誰もがそして一生命種としてもどうにもならない限界壁に囲まれている。それを自己正当化の基礎とするか?諦観と達観の縄として受け取るか? そこにわずかであれわれわれ一人ひとりの自由がある。どの道、われわれは迷宮に張り巡らされた壁の中だ。気持ちだけでも張り合って世界を睨みつけるしかない。憐憫とプライドの狭間で。世界の過半が理解し合えぬ黒々しい影であるとしても、必ず共感し合える仲間はいる。それを信じて希望とするしかない。それが今日一日を支えるだろう。孤独ではない孤絶とともにやっていくだけだ。目を凝らせば方々に灯は灯っている。われわれは非力だ。だがそれを非難される謂れはない。侮蔑も憤激も結局はなにももたらさないのだ。嗤って見守る。そこに溢れる偽善と欺瞞と虚偽をそのままに見守る。ウソと憐みのロンドは永遠だ。それが世界なのだから。合掌。
“ウソと憐れみのロンド-1”
心晴れないばかりか、体にも悪い今日この頃だ。それでなくとも、海の向こうの大きな選挙以降崩していた体調が低調なままだ。日々を送る国が凋落の一途で鈍する一方となれば、まあ仕方ないとは言えるにしても、憤るばかりの日々で怒りの毒が心身を壊しつつあるようだ。毒は・・・実に毒である。ウソやら責任転嫁やら詭弁を弄した強弁やらすり替えやら、まああざとさのてんこ盛りだ。麗しく咲くものなどどこにも見当たらない。薄汚れて肩をすぼめた言葉たちが長い葬列に倦んでいるようだ。言葉にも魂はある。べらぼうな使われ方ばかりがつづけば不貞腐れるのも当然だ。実に気の毒なことだ。欺瞞するために動員される言葉たち。“こんなことのために生まれてきたわけじゃないッ!?”。不当に酷使された言葉たちが一つ一つ死んでゆく。美しいということから遠く離れて一体なにを一体どこを目指すのだろうか!? どす黒いウソにまみれて!
生命現象はエゴイズムだと言った。しかし、許されるのは、無知なる生命力の躍動だからだ。ウソと真実というセットに気づいた者たちにはそれ相応の次元がある。それは欲得ずくで他者弱者少数者たちから奪う者らの罪業の洪水に呑まれて死んでゆくということだ。われわれは今真実という不可欠の共同神話を放棄することで沈みゆく船の甲板で呆然と立ち竦んでいる。希望の岸壁を離れて、絶望の岬で座礁するために。
怒りが少し薄らいできたようだ。そこにある病はわれわれ誰もが分かち持たねばならない共有病理だ。それもまたまさに“人間”なのだ。人間がその限界壁にぶち当たって粉々に砕け散る気配だ。一つの生命種が必然のそして宿命の末路を辿るだけ。泰然と受け入れるしかあるまい。サルから人間にはなり切れなかった憐れな生命種ヒト。ウソという墓穴を発掘してしまったときにこの運命は決まっていたに違いない。腹をくくるしかない。朝からTVは消したままだ。うっかりすると流れ込むウソの洪水で溺れ死ぬことになるからだ。せめてそれだけはご免こうむりたい。こういうときはバロックでも聞きながら現実を捨てよう。それしか耐えようがない。すでに捨てられた身としては。
たった一つの無思慮が全部のウソを暴露する。いっそ、痛快ってものだろう。挑発された相手チームももはや引き下がれないステージで逆上の歌をがなり立てている。・・・・・実にやれやれ的終末状況がつづいている。しかし、幕が下りきるまではお芝居はつづく。少し大げさに少し無理をして・・・・・そして地獄のフタがゆっくりと開いてゆく。漆黒の闇から吹き上げる生ぬるい風に乗って打ち鳴らされる鐘の音が聴こえる。誰が誰に向かって鳴らすのだろうか? そのそくそくと底冷えの気配を湛えた鐘の音。希望が絶望で、絶望は希望。また始まる歴史。キャストが代わるだけだ。生きることはただ生きることなのだ。無知なる生命の躍動だけに許される円舞。死者を記憶するのは死者たちではない。記憶が深い闇の中へと回収されてゆく。わずかの間、後に残る波紋。しかしそれもいずれは消えてゆく。永遠の今というステージの中へと。地球は周り、私たちの円舞も周り、そして私たちはしたたかに目を回している。それでいいじゃないか。生命はそこで永遠の地団太を踏んでいる。まるでさっき生まれたばかりのガキのように。・・・・・やれやれ。合掌。
“罪と報いと許しについて”
心晴れない日々がつづいている。・・・なんて~書き出しの呟きなんぞ誰だって読みたか~ないだろう。迷惑な話だ。しかし、これがわれわれの現実だ。
究極のところ、人間の歴史というものは、その全体がカルマの坩堝のようなものと言っていい。常になにかが限度を超え、節度を超え、法を超え、人道を破壊し、被害を受けた者らが不満を訴え、虎視眈々と報復の機会をうかがっている。そこに漲る“許せぬものは許せぬッ!!”という憤怒の業火は容易に消し去ることはできないものだ。
集団として恨みを買っているということをどこまで自覚しているのか? それがその人間の人間度を表わす。傷つけた側も傷を負わねばならない。そこにある当たり前に気づかないか気づかないフリをする。相手にとっては十分すぎるほど侮辱的だ。だが、そのことにも気づかない。致命的だ。
そういう光景、そういう事態を見くびって筋違いの感情的反応で状況を眺め受け止めている。これも十分に致命的だ。許し合える訳がない。コリジョンコース現象のようにいつかはこのすれ違った熱い情動同士が激突する日は来るだろう。歴史の必然なのだ。イジメた側は歳月とともに忘却し、イジメられた側は墓に入るまで忘れることができない。人間相互の暴力というものの皮肉なそしてやるせない本質がここにある。ヒトという生き物の酷薄さと恨みがましさ。いつでも容易に開いてしまう地獄のフタ。覚悟した方がいい。相手があきれ返るほど謝り倒しても何百年かかるか分からないのに、もう薄れている。致命的なすれ違いと筋違い。・・・・・だが、だからといって殺し合っていいことなど一つもない。相手を散々な目に遭わせればいっときは溜飲も下がるだろう。だが、より深刻化した面白くない関係はよりコジらせながら持続されつづけることになる。果てしない恨み返しの先に明るい未来を期待することは難しい。こういう事態に特効薬というものはない。残念だが、これがわれわれヒトという生き物の本質であり限界だ。傷つけられた自尊心を癒すまでは終わらない恨み。覚悟した方がいい。そういうことを甘く見る者らに率いられる先の未来ではなにが待っているのか!?を。
きっちり落とし前をつけないままにのほほんと過ごしてきた結果が今その巨大な岩礁となって姿を現わそうとしている。カルマの熱い円舞が加速しすべてを巻き込んでただひたすらな凄惨地獄を招来することになる。避ける道があるとすればそれは想定外の奇跡だけだろう。そういう幸運に期待するしかないようだ。もはやわれわれに選べる選択肢はほとんどない。ただ一つの態度を選びやり抜く以外は。だが、今ここにそういう機運はない。
傷つけた側も傷を負わねばならない。そこにある当たり前に気づかないか気づかないフリをする。相手にとっては十分すぎるほど侮辱的だ。だが、そのことにも気づかない。致命的だ。われわれはその致命的な愚劣のステージで見当違いのダンスに興じている。“父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです”で済ませられる話ではあるまい。ここにあるのは無知ではない。ただの薄汚い欺瞞なのだ。こういう欺瞞の洪水が未だに正当なる侵略という暴虐を許しているのだ。
カルマの熱い円舞が加速しすべてを巻き込んでただひたすらな凄惨地獄を招来することになる。ヒト、なんと中途半端な生き物なのだろうか? ここまで罪に鈍感で相手の心情を忖度する度量も深みもないとは。本当はなにが起きて、自分たちが一体どういうことを仕出かしたのか?を真正面から自省できない者たちが永遠に枕を高くして寝られないことの必然性について議論が必要だろうか? 相手の態度を云々する前に厳しく自己反省できているか!? そこにしか希望の芽はないのだ。無知を許せと言った人も、卑劣や欺瞞までも許せとは言わないだろう。ゴルディアスの結び目を断ち切る一閃はわが身をも断ち切るものでなければ意味はない。許し合うにはまず果てしないまでの自省が必要だ。それがないところに希望はない。それだけのことではないだろうか。合掌。
“今日も果てしなくやれやれである!”
意気揚々とスタートダッシュしたつもりがつんのめって大コケする。ありがちなことだ。全体が見えていない・・というより全体観がそこにない。決定的だ。誰かに対する阿りだったり、媚だったり、リップサービスだったり、所詮は浅知恵だ。綿密な計算ではない真の危機意識、それがない。面白いことになんちゃらファーストと見事に重なっている。場当たり的に自己都合で対応しているうちに昨日の自分と大いに矛盾している。しまったッ!と思っても吐き出した言葉を言わなかったことにはできないし、今更修正のしようもない。しゃにむに押し通ろうとすれば事態は混迷を深めるばかりだ。相手はここぞとばばりに追い込んでくるが、手の打ちようがない。すでに事実とか真意とかが問題ではないのだ。アリの一穴からどっと攻め込んでくる相手にいいように弄ばれ、つけ入られるスキを見せた側の大間抜けだけが殊更にクロ-ズアップされる。
起きてしまったことはもはやどうにもならない。針小棒大や曲解を言い立てたところで相手の態度をさらに硬化させるだけだろう。かといって、冷却期間をおいてなどと悠長なことは言っていられない・・・となると、こういう際、侍たちはどうしたか? 責任を取ったのだ。端的だ。首を差し出して、申し訳とし、局面を変えたのだ。ここで意地づくで頑張ることに希望は持てないだろう。威信とか体面などというが、そもそも自らぞれを損ねたのだ。他人事みたいに涼しい顔は少々図々しいだろう。その任にあらず。退くべき時は退けばよい。一日一日粘ることが状況を拗らせ悪化させる。それだけのことではないだろうか?