“終末の雨は涙色”改め“再生への風”

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“熱き日々が始まりました”

“空が落ちてこようが / 地球が壊れようが / そんなことはどうだっていいの / あなたが私を愛してくれるなら”。なんとも凄まじい出だしだ。道ならぬ恋を終わりにするために書かれた詞だと聞けば、それがここまで過激なものになったことにも頷けるものはある。誰かを死ぬほど好きになるという事件は宇宙を破壊しかねないほどのエネルギーを生み出す出来事なのだ。だからそれを振り捨てようとする者は一切合切を火に投ずかのような苛烈さ要求されることになる。ピアフという人はフランス人にとってただの歌い手にはとどまらぬ存在になったようだ。多分、フランス人にとって魂の一部になってしまったということではないかと思う。それにしてもオリンピックの開会式の締めに“祖国だって捨てるわ”と歌い上げるとは大した度胸だ。むろん、オリンピックは本来は個人参加のものであって国威発揚の場ではないとはいえということだが。

 セリーヌ・ディオンが闘病中という噂は耳にしたことはあったように思うがこれを機にその詳細を知ることとなった。余りの過酷さに言葉もないが、歌うことが生きることそのもののような彼女にとってそれがどれほどのことであったかはわれわれの想像の及ぶところではない。今回あのような二つとないひのき舞台で世界に向かって復活を告げることになりさぞや万感の思いに心熱くしたことだろう。おそらく思いを同じくした多く観客も涙したのではないかと思う。彼女自身、愛する身近な人々を相次いで亡くすという辛い経験をしているようだ。あの絶唱は夜空の彼方へも届けるものだったに違いない。愛は大事だ。だが、エロスのエナジーの破壊力はまた別だ。この歌の世界で恋の詩人は死の向こうに待つ永遠のときの中で二人は一つになると言い放っている。もはや神さえサジを投げたことだろう。あらためて恋って一体なんなのだろうと思うばかりだ。ピアフという女性にとってその後の人生がどういうものだったのかは分からない。懸命に生きようとしたのだろうとは思うが、詮索しても仕方あるまい。恋と死とそして歌。セリーヌのあの神々しいまでの姿を見て目頭を熱くした人も多かっただろう。平和の祭典は愛の祭典でもなければならない。私たちは業火の中でピクニックに興じているのかもしれない。だが、そこにこそ私たちの矜持があると思い定めよう。私たちは嘘偽りなく地獄の業火の上で胸熱くしている。せめて負けないために、せめて真っ直ぐ立っているために、歯を食いしばって前を向くために。奇跡は起きない。それを覚悟して祭りを楽しめ! 愛は大事だ。それは生きることだから。彼女がそう言っている。死を超えて恋は生きる。サジを投げた神も苦笑しているに違いない。恋する人間の勝ちだ。憎むことしかできない不幸なものたちに憐れみを! 平和は勝利の先にあるのではない。フェアに闘った勇者たちがハグする瞬間にこそ溢れ出すのだ。合掌。

 

 

 

“猿にも翼を!”

 Å4の紙に20cmの横線を引いて、その右端に2B程度のエンピツで縦棒を引く。この誤差程度の幅の縦線が200万年つづいたとされる石器時代の端っこで開始された銅の利用に始まる金属文明だ(ざっくり6000年前)。さて、今度は右端から10mm程度の位置に縦棒を引く。それが金属文明の開始から現在に至る時間6000年を20cmの横線で表示し直した場合の産業革命が開始されて以降の文明だ(ざっくり300年くらい前として)。その中間点5mmあたりから始まったのが本格的な電気の利用、核分裂の連鎖反応(原爆や原発)が実用化されたのがほぼ80年前、右端から3mm弱のあたりだ。この3mmを最初の石器時代のスケールで眺めて・・・?? 限りなくゼロに近い。

 200万年という気の遠くなるような時間、われわれのご先祖様たちは一体なにをしていたのだろうか? だがその限りなくゼロ度に近い斜度の現代科学文明への坂道をゆっくりとであれ着実に上りつづけていたのだ。火の利用の開始時期の推定は幅が広い。可能性として石器時代前期にはすでに始まっていたのではないかという見方もあるようだが、確定するだけの痕跡は見つかっていないのだろう。なにはともあれ、こ文明への坂道を上りつづけた末に今があるということだ。どうだろう、こうやってざっくりざっくり眺めてみて気づくことはないだろうか? 私はこう思った。今のこの現状をいつかの時点で避けることができたなどとはとても思えないということだ。これが、この天体上で知的に進化するということの宿命だったのであり、それが到達した科学文明の魔性のようなものにいつの間にかヒトの方が隷属し、ある意味その絶えざる進化に向かってひたすら奉仕させられてきたというのが実態ではないかということだ。こういう見方から考えてみた結果、私はこれまでの考えを大きく変えるべきなのであるまいかという思うに至っている。まだそうと決めたわけではないが、そういう思いが強まっていることは確かだ。今まさに直面しているわれわれの文明の危機は自然の復元力に期待するみたいな悠長なことでどうにかなるようなものではないのではないかということだ。冒頭の横線の図表で明瞭に分かる通り、われわれの危機への道が描く曲線は恐るべきことになっている。われわれの坂道の斜度はY軸に対して限りなくゼロに近づいているのだ。この危機はどこまでもわれわれが招いたわれわれの危機だ。そうなればもはや技術による危機突破にしか道はないのではあるまいか。これまではずうっとそういう技術偏重の驕り高ぶりを恥じて心底から反省して生き方を根底から問い直すということろから始めない限り正道ではないのではないかと考えてきた。むろん心からの反省は大事だろう。だがこの危機は特別だ。人類が総力を挙げて立ち向かわない限り突破できない極めて致命的な危機だ。ここを技術のサルとしてはその粋を結集させて乗り切るのでなかったらなんだったのか!?ということにならないだろうか? 恐らく多くの研究者たちがとっくに始めているのではないかと思う。われわれとしてはそれを期待しながら見守るしかない。技術に偏重し自然と間に決定的な乖離を生んでしまった文明、その功罪についての検証は危機を突破した後でじっくり着実にやればいい。どの道この危機を乗り越えない限りなにも始まらないのだ。それがどれほど荒唐無稽な着想であろうとすべてを検討するところから始めることだろうか。座して死を待つだけという事態に突入する前にやるべきことは全部やってみるしかないのではないのではあるまいか。私はそういう機運は必ず生まれると信じたい。技術のサルは技術によって自らを救うしか道はないのだ。それを信じて祈る。それしかできないのならそれをするしかない。技術のサル人類の真正なエリートたちに期待しよう。ふとこんなこと思ってしまった朝になった。子供たちから当たり前の未來を奪わない! 柱はこの一事で十分だろう。家庭に光を!少年に愛を!そして未来に希望を! 合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“前回への追記-つづき-終わり”

 神に付随して現れた良心なるものについても少し考えておくことにした。痛んだり、疼いたり、責め苛まれたり、実にしんどい。だが、一方で心の範疇にあるもの特有の曖昧さも免れることもできない。心は石っころやテーブルや自転車みたいに手で触ったり目で見たりすることはできない。実際にそんなものがあるんだかないんだかはっきりしない・・というか確かめようがないというところに厄介さがある。だが、そもそも多くの人にとって良心というものは、まずは自分自身の中にそういう心の働きがあるといことに気づいてしまうという形で出会うものだ。疾しさとか痛みとか疼きとか、そういった心的な現象として現れる。他にも様々それを信じられるような瞬間や場面はある。それをあからさまに言うことが当人にとって不利益となるような状況で敢えて見たままを証言したり、自己の犯した罪を隠さず告白する人の姿を見るときだ。むろん、その証言こそが嘘偽りであったというケースもないではない。だから厄介なのだが、自分の内面のこととして振り返ったり、様々な場面を通して人間という生き物を観察する中で人間には良心というものがあるようだという漠とした確信のようなものは持つようになる。この良心という心は一体どこからやってきたのだろうか?

 私はこう考えている。チコちゃんふうに言うなら「他人の痛みが分かるようになったから~」だろうか。以前の回で「倫理の感覚は激しい情動を本源としている」と言ったことがある。サルからヒトへの旅路において最大の事件こそ、明確な自意識レベルへの到達、自/他とか内/外への完全分離の感覚、〈わたし〉への覚醒だ。そこから様々なものが連鎖的に始まっていったのだが、その一つがヒトが自分を自分として意識するということに必然的に付随した自分のもの他人のものという明確な区別だ。それにより自分のものを他人に奪われるみたいなことが起きると激しい怒りに駆られることになる。そういう争いはサルの時代にもあっただろう。だが自意識が確立されていない段階では、日常的に物を挟んだ争いは頻繁に起きてはいただろうが決して所有権をめぐる争いではなかった。ただ目の前にある物を獲り合っただけだ。腕力の強い側や狡猾な側がそれをせしめる。そういうことだっただろう。そしてそれだけのことだった。だがヒトにおいては全く違う様相になった。誰かが誰かの所有物を一方的に奪うという行為は、許しがたい!という激情を喚起するものとなったということだ。だが奪われた側にとって奪った者が逆らい難い強者となれば、多くの場合仕方なく泣き寝入りするしかなかっただろう。そういう納得できない経験が重なっていく過程で、瞬間的な怒りという感情が持続的な情動憎しみとか恨みのようなものへと変換されてため込まれていく。このプロセスと並行して、周囲の者が同じような理不尽な目に遭っている光景を目にして強い同情心を抱くということも起きたに違いない。それが、誰の身に起きるのであれこういうことは間違っている!許されていいはずがない!という強い思いとなり、ごく自然な成り行きとして強者が弱者を虐げ好き勝手をしているという状況は正されるべきではないかという考えとなり広く共有されていくことになっただろう。この、一方が他方に対して理不尽な所業に及んでいる光景を第三者の立場から道徳的に評価するという構図がそのまま内面化されたもの、それがすなわち「良心」だ。少し後ろに退いて自分自身の所業を道徳的に見つめ反省し評価する。それはおそらく瞬間的な感覚的な反応として現れたものだっただろう。これこれこういうことだから私は間違ったことをしてしまったのだみたいな面倒な手順など抜きに、即座の情動反応として「しまった!なんと酷いことをしてしまったのだろう!私のバカ!!」みたいなことだ。その結果として自分を否定する気分に襲われて落ち込むということにもなる。ここに大自然の驚異への恐れから生まれた神の観念とは異なる自己を見つめる目というもう一つの神の座が生まれたのではないかと私は思っている。話は単純だろう。「そんな仕打ちを受けたら誰だって傷つく。少なくとも人の世では許されていいことじゃない!」ということだ。一頃、「どうして人を殺してはいけないの?」をテーマとした本が話題になったことがある。とんでもない疑問の持ち方でああるが、別の角度から見るなら極めて哲学的なテーマでもある。天然自然この宇宙世界に法律のようなものは存在していないからだ。あるのは現象すべてを取り仕切る法則とか原理と呼ばれているようなものだけだ。警察も検察も裁判所もない。必然、弁護士という職業の人もいない。ここから見るなら、サルの時代の奪い合ったものはその取り合いに勝った側のものになるという帰結にはなんの問題もなかったことになるだろう。それがいわゆる生存競争でありその勝者ってヤツだ。この競争はあらゆる関係において起きる。そして争奪戦に勝った者が生き延びる。実に分かり易い。だが人間世界ではそうはいかなくなった。端的に明確な自分というものを持ってしまったからだ。その自分というゼロ点からあらゆるものが派生し広がっていく。それにつれて様々情動の複雑化が起きる。中でも他者を羨むという情動ほど厄介なものはない。だが、それがエネルギーとなって人間ドラマは果てしなく極大化してゆくことになる。ひと度人なのだからこれはいけないでしょう!という共有観念が生まれてしまうとこれもまた果てしなく広がり、その過程で「人道」という枠内のものとして整理されていくことになる。それが一般道徳となり、社会的権能を背景とした法律のようなものになってゆく。

 少し良心から離れてしまった。あらためて整理して言うならこうなるだろう。「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」。その通り! 孔子というお人は実にいいことをおっしゃる。そういういけないことを仕出かしてしまうから良心が咎めるということにもなるというわけだ。だが、世の中には様々な事由の所為でそういう機能を持たない個体群も一定程度現れる。そこに人類の悩みがある。ここで突如無謀な結論めいたことを言うようだが、私個人の考え方としては耐えるしかないのだろうと思っている。それとそれに付随する問題群はある意味人為人事とは少しズレたところに起因するものと見して向き合うしかないものだからだ。これはわれわれヒトが避けがたく抱え込まなければならないリスクであり病魔なのだ。ヒトいう現象にはそういう発生学上の問題もあるということだ。それはある意味高齢者となれば多くの人が直面する認知上の問題とも連続するだろう。われわれは実に様々なリスクを抱えながら生きている。それをある程度は覚悟した上で生きていくしかないということだ。仮にその所為で人類が滅びることになるとしても甘んじてその結果は受け入れるしかあるまい。なぜなら人道を貫けばそういうあり方しかないからだ。われわれは今多くの問題や悩みや困難に直面している。辟易することも呆れ返ることも耐え切れぬくらいの憤激に駆られることも多々ある。だが、究極は耐え切るというところにしか道はないのではないかと私は密かに思ってる。人道を大事にするあまり人道を犯したので話にならないからだ。身内に潜む神の目というヤツは結構重い。だが、それには少し抵抗もしよう。所詮われわれは神ではないのだ。人道とはヒトが為し得る限界内ということも絶対条件だろう。むしろこうではないだろうか。目の前にある理不尽に手をこまねいていることしかできない!という苛立ちと無力感と自己嫌悪が生み出したものこそこの「良心」だったのではないだろうか、ということだ。いつまでも悔い、いつまでもつづく無力感、いつまでもつづく自己嫌悪だからこそバランスが取れるということではないだろうか。そう受け止めるしかあるまい。われわれは無力だ。神ならぬ一介の人間でしかない一人ひとりが背負えるものは限られている。だったら少なくともなにもできぬことを盛大に嘆くべきではないだろうか。私たちがこうやって嘆きつづけたことが宇宙史にどう刻まれていくのかは分からない。だが、のほほんと座視しつづけていただけではなかったという事実に意味がないわけがあるまい。酷いことが起きているのは今に限ったことではあるまい。いつの世も酷いことだらけだったのだ。で、結局、多くの非力な人々はどうしたのだろうか? それこそ積極的に耐えたに違いない!と私は思っている。耐えることで自分たちの「人間」を守る。それしかできなかったのだ。そういう人々が日々隣人にできることをしつづけている。そういうささやかな美質の陰にある深い嘆きと耐えているという密やかな気配が人の世の厚みを作っているのではないだろうか。私はそう思う。このささやかな美質という本質はおそらく太古の昔から変わらないのだ。どうだろう、だからヒトは今日この日までも生き延びてくることができたのではないだろうか。・・・やれやれ、なぜかつづるうちに今を耐える方法という論考になってしまったようだ。当初は思ってもいなかった出口に出てしまった。だが、今はこう考えているということだ。・・今は。

 ゴドーとかメシヤとか弥勒さんとかは結局やってはこないのだ。・・・偶にはふっと後ろを振り向いてみるのもいいかもしれない。あるいは、自分の中の井戸の底を覗き込んで目を凝らしてみるとか。この現実世界は実に酷いことだらけだ。だがいつの世も酷いことだけだったことはない。己の無力と罪を胸内に仕舞い込みながらささやかな夜の宴を最後の晩餐かのように楽しむ。それは権利でも勤めでもないだろう。ただそれが生きているということだからだ。合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“前回への追記”

「死ぬはずだったのに神のご加護で生命を救われた」と抑えた声で語るその人物に釘付けになった人々の中には涙を流す人々も少なくなかった。異様な空気がTV画面を通しても伝わってくるようだ。予想はされたことだったので、殊更驚くことはなかったが、やはり困惑を禁じ得なかった。その聴衆の中には、なんらかの断り切れない事情などあって心ならずもその場に身を置いていた人もあったかもしれない。彼らも私と近いものを覚えたのではないだろうか。だがそこでは、困惑の一言で済ませられていいとも思えないことが起きていたのだ。そこに横溢していたある種の空気が一体どういう本質もものであるかを考えたとき・・・。

 冗談でも皮肉でもなく、神なるもののそのときの御業について考えてみた。神は、なにをどうしたのか? ひょいっと手を伸ばして弾道を微妙に変えたのか、部下に命じて弾丸に息でも吹きかけさせたか、あるいは当の人物の脳の中に入り込んで脇の書面に目をやるように仕向けたのか。神なのだ。いくらでもやりようはある・・・ということなのだが、別の問題もある。神はそれと並行して弾丸を放った男のことも見ていたはずだ。放っておいたはずがない。神なのだから。遡ってこの男がこの犯行を思い立ったときも当然神はこの男の心の中までも見ていたことだろう。神なのだ。自由自在だ。素人考えだが、その時点でなんらかの手を打っておけば、事件そのものが起こらず、無事に集会は終えられていたはずだ。では神は、この一連の展開を通してこの人物の生命を救っただけではなく、大きく状況とその流れを変えるよう演出でも施したということなのだろうか。随分な肩の入れようだ。もっと別に目を向ければ、流れ弾に当たって不幸にも犠牲になった人の命運に関して神はどういう考えで臨んだのだろうか? この人のこともずうっと神は見ていたはずだ。こういうふうに話を広げていけば、ことは果てしもないことになる。そもそも「この事件」と一言で呼ぶことはできるにしても、事件の全貌をその一々の細部にまであらゆる方向から眺めすべてに辻褄の合った采配を下すみたいな超絶に複雑なこと、神様ではなかったら・・???? なにか話は妙な方向にいくが、そこは全能の神なのだから不可能なことはないということなのだろう。犠牲になった人の周囲にいた人々、警備に当たった警官たちやその他そこに参集していた大勢の人々。その一人一人が自己の命運に神の思し召しが働いたものと考える。どうだろう、こういうこと、つまり、階段でけつまずいてちょいと痛い目に遭ったみたいな日常のごく些細な運不運や甚大な被害を出す災害や一生に一度あるかなきかの歓喜やらなんでもかんでも神様の思し召しで説明するのって、とても現実的ではないような気がするのだが。宇宙世界で起きていることすべてに注がれている神の目。この想像を絶するあり様を思い描くだけで神を心の底から尊敬できる。だが一方ではどこか妙な気分しか湧いてこない。単純素朴な疑問だ。なんで神様はそんな消耗なことをしてるんだろう!? 数量の範疇など超えた総現象のすべてをそのプレイヤーへの事細かな評価まで含めて見つめる。例えば、人の数だけ神の目があって一人一人の背後からじっと見つめている。厳かさなんてもんじゃなくある種ホラー的な空気さえ漂ってくるのではないだろうか。私は皮肉や冗談でこういうことを言っているのではない。本気で神のご苦労に同情しているのだ。そして心からの気持を込めて忠告したい。いっそ厳密完璧な原理や法則を提供しておいて「後はお前たちで好きにやりなさい!」でいいんじゃないですか?と。どんな些細な件にも首を突っ込んで一々に指図し関与している。そんな途方もないことに精出している神とは随分不思議な全能者ではないだろうか? はっきり言うなら、そういう神様像というものには無理があるのではないかということだ。宗教的心情とか信仰心のようなものに注文をつける気はないし、していいわけのものでもあるまい。だから、少し斜に構えたところからのちょっかい程度のことしか言えないのだが、思いは正直なところだ。その方が本当に神様であるのなら、もっと利口だろうし、もっとスマートなやり方をされるのではないかと思うのだが。そもそも選んで誰かの味方をするような振舞いをなさるだろうか? 人間のことは人間の責任の範囲内で取り扱うべきではないだろうか。神はこの世を創り上げられた。もうそれだけで十分ではないかと思うのだが、どうだろう? 依怙贔屓する神の姿、・・・あまりにもリアリティーがなさ過ぎはしないか? そもそも神のそんな姿など見たくはない。神があの神であるのなら、ある意味冷酷なまでに平等公平であるはずだ。だからこそ、われわれは誰もが己をもち罪を犯すことができるのではなかったか?

 宗教が人類社会の今にとって極めて重大な問題となていることは間違いないだろう。だが、単に重いだけでも大きいだけでもない。実に複雑で、実にデリケートで、実にそしてあまりに人間的で、実によく分からない。だから手にあまる。人類総体が心から恐れる恐い恐い無限に巨大強大な存在はなくてはならないのではないかと痛切に思うときもある。ヒトという生き物の余りの愚かさと残忍さに心底情けなくことも多いからだ。宗教というものもそもそもがそういうところから生まれた感覚ではなかっただろうか。地が激しく揺れる。山が突如火を噴く。俄に暗くなった空を切り裂くように稲妻が走りおどろおどろしい雷鳴が轟き、滝のような雨が降り注ぎ村が村人が根こそぎ洗い流される。さぞや驚愕し恐れ戦いたことだろう。そこに自分たちが沸き立つ怒りに身を震わせる光景が重なる。なにものか大いなるものの激情が爆発している。そこにみなぎる超絶を極める怒り。われわれは見られている、そして罪を犯せば容赦なく有無を言わさず罰される。それは電撃が全身を貫くような衝撃として感覚されたに違いない。宗教の本源はそういうものだったのではないだろうか。言い過ぎを覚悟で言うなら、現今の人間の姿に魂の底から神を恐れている姿などついぞ見かけることはない。想像の光景として見えるのは、好き勝手に散々利用された挙句ほとんど忘れられたままにされている神の気だる気な呆れ顔だ。神は無力だ。でなかったら、あれほどの子供たちが無造作に殺戮されるままに座視しつづけているはずがない。ごくごく勝手な私見を最後に言っておくなら、こういうことではないかと私は思っている。神とはそれぞれの良心のもう一つの顔なのではないかということだ。その良心を圧殺するために偽りの神が利用されている。私の目にはそう見えてならない。宗教のことを考えようにも実際問題その本物を見つけることが難しい。それこそが現段階の絶望ではないだろうか。とっくに葬り去られた神のことはもうそのままにしておくのがいいのではないかという意見もある。私も半分は賛同する。だが、どうしても気がかりな問題がそこにはある。正直、愚昧な町のおっさんの手にはあまる。いつか少しは視界が開ける日でもあるのだろうか? そうい日でもあれば、その神様っておひとととっくり飲み明かしてみたいものだと思っている。そうではないか!? 訊きたいことが山ほどある!・・・やれやれ、一層訳の訳の分からないことになった。そういうおひとが向こうにいらっしゃるってことだ。無力な神に救いの手を! 間違いなく話は逆なのだが。合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“前回へのお断りと追記”

 前回に論脈上の乱れがあったことに後になって気づいた。お恥ずかしい限りだ。異宗教間の歩み寄りの試みの話と渋沢が関わった「帰一協会」のことがごっちゃになってしまったことが原因だ。あくまで異宗教間の平和共存が目的の「歩み寄り」がテーマであった番組内で融合可能性の有無云々に言及があるはずもなかったわけで、そういうことに触れた部分に問題があったことは否めない。ただ、言いたかったことはそのままにしておきたいので、文脈を修正することはしないでおくことにした。ご了承いただきたい。

 宗教にそれならではの効用や力があることは間違いないだろう。信仰する人々の日々を根底から支えているのだ。だが、その反面極めて危険なものも抱えていることもまた疑いない。だが、その良質部分のみを残して他はきれいに捨て去るみたいなマジックは無理だろう。そこに悩みがある。むしろ、宗教意識を根底から捉え直して試みる融合に可能性はあるのか否かの問題以上に、その数比率の如何に関わらずまるで集団の命運を掌握する中核かのように振る舞うアンカーのような強硬な層がどの集団にも存在していることの方がはるかに問題かもしれない。全存在的に帰依し、宗教と徹底一体化してしまった信仰のあり方に問題があることは否定できないだろう。これが孕む危険性と信仰の自由権との折り合いは極めて難しい問題だ。この問題が、宗教という枠の中だけの問題として向き合うのでは埒が明かないレベルにあることはすでに気づかれていることだろう。宗教という人間的精神現象と純粋な形で向き合い、その根柢本質を問い尽くすことで融合が図れるかもしれないという夢の話の前に大きく立ちはだかる問題だと言っていい。考えようによれば、そこにこそ宗教意識というものの本質問題が存在しているのかもしれない。だが、今の私の手にはあまる。「信」のことであるがゆえに、究極的に“理屈ではない!”という怒声となって轟くとき、すべては立ち往生する。そういった意味でも渋沢がいわゆる帰依信心とはまったく別の境域にいたことは間違いないだろう。原理と論理とあるべき合理的ルールを第一義とする渋沢の志向は宗教というより哲学的なものであり精神科学的な態度だったと言っていいものだ。その位置から、客観科学的な理路を通って無理のない価値観で人類社会が融合していくことに渋沢が夢と希望を覚えたとしても不思議ではあるまい。だがその道のりのあまりの遠さに眩暈を起した可能性もある。それは今の私たちのものであるようだ。例えば、進化論を学ばぬままに成人してゆくことに問題がないとはとても思えないだろう。そいう世界観や生命観や人間観にある人々と語り合うことを思ってみるだけで気が遠くなりそうだ。私たちは考えていた以上に複雑で難しい世の中を生きているようだ。やれやれ、思いが向くままに綴っているうちに、また支離滅裂なことになった。病気なのだ。布団でもかぶって寝た方がいいのかもしれない。合掌。

 

 
 
 
 
 

 

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