“熱き日々が始まりました” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“熱き日々が始まりました”

“空が落ちてこようが / 地球が壊れようが / そんなことはどうだっていいの / あなたが私を愛してくれるなら”。なんとも凄まじい出だしだ。道ならぬ恋を終わりにするために書かれた詞だと聞けば、それがここまで過激なものになったことにも頷けるものはある。誰かを死ぬほど好きになるという事件は宇宙を破壊しかねないほどのエネルギーを生み出す出来事なのだ。だからそれを振り捨てようとする者は一切合切を火に投ずかのような苛烈さ要求されることになる。ピアフという人はフランス人にとってただの歌い手にはとどまらぬ存在になったようだ。多分、フランス人にとって魂の一部になってしまったということではないかと思う。それにしてもオリンピックの開会式の締めに“祖国だって捨てるわ”と歌い上げるとは大した度胸だ。むろん、オリンピックは本来は個人参加のものであって国威発揚の場ではないとはいえということだが。

 セリーヌ・ディオンが闘病中という噂は耳にしたことはあったように思うがこれを機にその詳細を知ることとなった。余りの過酷さに言葉もないが、歌うことが生きることそのもののような彼女にとってそれがどれほどのことであったかはわれわれの想像の及ぶところではない。今回あのような二つとないひのき舞台で世界に向かって復活を告げることになりさぞや万感の思いに心熱くしたことだろう。おそらく思いを同じくした多く観客も涙したのではないかと思う。彼女自身、愛する身近な人々を相次いで亡くすという辛い経験をしているようだ。あの絶唱は夜空の彼方へも届けるものだったに違いない。愛は大事だ。だが、エロスのエナジーの破壊力はまた別だ。この歌の世界で恋の詩人は死の向こうに待つ永遠のときの中で二人は一つになると言い放っている。もはや神さえサジを投げたことだろう。あらためて恋って一体なんなのだろうと思うばかりだ。ピアフという女性にとってその後の人生がどういうものだったのかは分からない。懸命に生きようとしたのだろうとは思うが、詮索しても仕方あるまい。恋と死とそして歌。セリーヌのあの神々しいまでの姿を見て目頭を熱くした人も多かっただろう。平和の祭典は愛の祭典でもなければならない。私たちは業火の中でピクニックに興じているのかもしれない。だが、そこにこそ私たちの矜持があると思い定めよう。私たちは嘘偽りなく地獄の業火の上で胸熱くしている。せめて負けないために、せめて真っ直ぐ立っているために、歯を食いしばって前を向くために。奇跡は起きない。それを覚悟して祭りを楽しめ! 愛は大事だ。それは生きることだから。彼女がそう言っている。死を超えて恋は生きる。サジを投げた神も苦笑しているに違いない。恋する人間の勝ちだ。憎むことしかできない不幸なものたちに憐れみを! 平和は勝利の先にあるのではない。フェアに闘った勇者たちがハグする瞬間にこそ溢れ出すのだ。合掌。