*4月12日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコと近現代史のしらたま教授オバケとの歴史トーク、今回のテーマは昭和戦時中の外交官・杉原千畝です。

 

 本日は、ハルビンの杉原千畝 のおはなし。

 

 

 

 

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 あんみつウシシ 「本メモ しらたま先生、大正八年(1919)七月、19歳の杉原千畝は外務省が募集した留学生の選抜試験に合格。英語はすでに習得しており、第二外国語としてスペイン語を希望していましたが、ロシア語を勉強することが条件だったんですね」

 

 しらたまオバケ 「うん。この年は欧州大戦(第一次世界大戦)が終結、ベルサイユ条約が結ばれヨーロッパに平和が戻ると同時に、戦時中に日本が中国に押し付けた対華二十一箇条要求で日中関係が緊張。しかもロシア革命が起こるという国際情勢だったから、外交に長けた人材育成が急務だ」

 

 あんみつうーん 「ソビエト連邦の正式発足は1922年12月のこと。大戦中に三月革命が起きてニコライⅡ世(皇太子時代の1891年、来日中に襲撃された人ですね)が処刑され、ロマノフ朝は滅亡しました。臨時政府はドイツと単独講和を結んで戦線離脱したので、ロシアと日本の国交は断絶状態です」

 

 しらたまオバケ 「しかもロシア革命に介入して利権を確保しようとのシベリア出兵を強行していたから、当然ながら現地留学など不可能。やむなく満州のハルビン(黒竜江省)に赴くことになった。そこは1898年にロシアが東清鉄道を敷設したさいに拓いた都市だ」

 

 

ハルビンは鉄道網のハブ&スポーク

 

 

 あんみつウインク 「本 ええと、日露戦争後のポーツマス講和条約において鉄道は日本に譲渡され、領事館を設置して解放地になっていました。街には革命を逃れたロシア人が多く居住します。ソビエト(兵労協議会)革命の赤カラーを好まないという意味で、彼らは ‟白系露人” と呼ばれていました」

 

 しらたまオバケ 「杉原は彼らと交流してロシア語を学ぶことにする。ところがその矢先、兵役命令で朝鮮の龍山(ソウル中部)に配属されたので、復学できたのは1922年9月のことだった。扱いは見習い士官ではあったが、外務省の留学生と知らずに召集したんだから、軍部と省庁になんの連絡がなかったことがわかる」

 

 あんみつにやり 「本 やっとの復学後はロシア人家庭にホームステイするなどして猛勉強を重ね、1923年3月の試験では甲評価。会話・作文から仕草までネイティヴに達していたといいますから、努力のほどがわかります。さらに国境の満州里で実地に研鑽を積み、1924年2月に外務書記生として入省しました」

 

 しらたまオバケ 「通訳として外交官の第一歩を踏み出すと同時に、3歳下のクラウディア・アポロノヴァと結婚。白系露人の娘だ。当時の情勢からして職員とロシア人の国際結婚は微妙だったが、さいわいに日ソ基本条約締結で国交が回復したので認可が下りた」

 

 あんみつおーっ! 「ハルビン総領事館に勤務を始めた杉原は、ロシア語を活かしてソ連の政治情報収集を任されます。ハバロフスクから逃れてきたと自称するチェルニャエクなるロシア人から機密書類を買い取ったり、水面下でのスパイ活動もやってたようで」

 

 しらたまオバケ 「若いに似ず老獪な杉原は、総領事の大橋忠一(ちゅういち)に可愛がられた。彼は外務省きってのタカ派で関東軍の同調者。1931年9月に満州事変が勃発すると、自作自演の爆破騒動を起こしてハルビンへの出兵をうながすことに協力した。これについてはまたあとで触れよう」

 

 あんみつえー? 「杉原は後年の行動を俟つまでもなく、関東軍の満州での軍事暴走には否定的でした。なのにそんな上司に手腕を見込まれたのは皮肉な気がします。ロシア語とロシア事情に通じた部下だから利用されたかのような」

 

 しらたまオバケ 「ある日、杉原は大橋に連れられて、ウラジオストックの海員クラブで飲んだ。実はそこは日本共産党員のたまり場だったんだ。当時の共産党は弾圧対象。小説家の小林多喜二が獄中で虐殺されたのは1933年2月のことだ。共産党とコミンテルンの関係を杉原に視察させていたのは明らかだろう」

 

 あんみつアセアセ 「本 おりしもソ連ではスターリン独裁体制が確立し、工業立国を目指して計画経済にシフトしていました。教科書でいうコルホーズ(集団農場)とかソフホーズ(国営農場)ですね。同時にトロツキーやブハーリンなど政敵を次々と葬る大粛清を進め、恐怖政治を敷いていきます」

 

 しらたまオバケ 「すでにスターリンはコミンテルン...共産主義インターナショナルなぞに興味はない。だが日本国内ではそんな情報などてんで入ってこなかった。なんたってスターリンの所業を世界が知ったのは、実に1956年になってフルシチョフ第一書記が公表したときなんだから」

 

 あんみつねー 「満州事変については、ソ連はホロドモール(ウクライナ飢饉)と呼ばれるスターリンによる経済封鎖で混乱の極みにあり、静観の構えでした。むしろ日本政府に対し、日ソ不可侵条約締結を交渉してくるという」

 

 しらたまオバケ 「日本政府は事変の拡大はソ連を刺激しかねないと恐れていたので、こうした態度はもっけの幸いだ。閣内は割れ、不拡大派の若槻礼次郎首相は総辞職、強硬な犬養 毅内閣に代わる。一介の通訳官だった杉原は、図らずも傀儡政権たる満州国建国という歴史の渦中に身を置いていた」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 ハルビンの地でロシア語を体得し、外交官として勤務を始めたまさに同時期、満州は日本・中国・ロシアの緩衝地帯にありました。

 

 次回、満州国外交部の杉原千畝 のおはなし。

 

 

 それではごきげんようオバケニコ