*6月15日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のぜんざい教授ねこへびと、教え子の院生・あんみつ君ニコの歴史トーク、今回のテーマは米沢の名君上杉鷹山。

 

 本日は、十七歳の藩主 のおはなしです。

 

 

 

 

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 あんみつぐすん 「先生、米沢藩上杉家15万石に、高鍋藩秋月家から松三郎が養子に入ったのは9歳のとき。それまで傅役だった三好善太夫から、お達者で学問と武芸に励み、すべて養家の作法に従うようにと丁寧な手紙を贈られたのを、生涯大事にしたと言います。やはり生家を去るのは寂しかったんでしょうね」

 

 ぜんざいねこへび 「宝暦十年(1760)、松三郎から改名して上杉家伝の幼名・直松を名乗り、麻布の高鍋藩屋敷から桜田にあった上杉屋敷に引っ越した。大名の妻子はみな江戸在住だから、わざわざ宮崎から山形に行かなくて済む(笑)」

 

 あんみつほっこり 「本 藩主の上杉重定に子がなかったから養子をもらったのに、あろうことか同じ年、側室のお勢が男児を産んだんですよね(畠山彌五郎)。でもすでに幕府に養君を届け出てるし、重定が直松の素質を買っていたこともあり、さいわいもめ事はありませんでした。直松は重定の娘・幸(よし)と婚約します」

 

 ぜんざいねこへび 「元服と将軍・徳川家治へのお目見えは16歳になった明和三年(1766)。一字拝領を受け <上杉治憲(はるのり)> を名乗る。妻の幸には知的障害があり、言動はずっと幼稚のまま。それでも彼女が30歳で亡くなるまで、治憲は天女と呼んで大切にし続けたと言う」

 

 あんみつ笑い泣き 「折り紙や人形を縫うことが好きだったから、治憲も毎日必ず奥に入って、一緒に鶴を折ったりして遊んだんですね。やさしいんだなぁ。表では学問に励み、養父重定に薦められた藁科松伯(わらしな・しょうはく)という若い医者を師にあおぎました」

 

 ぜんざいねこへび 「松伯はさらに江戸で儒学を教えていた尾張出身の学者・細井平洲を見込んで、治憲に推薦した。彼の学問は実学、つまり実際の役に立たなければ意味がないというスキリング重視のものだったので、治憲は深く感銘を受ける」

 

 あんみつショック 「明和四年(1767)四月、養父重定は48歳にして家督から退き、治憲が17歳にして上杉家15万石の藩主に就きます。実は重定は藩の財政窮乏に絶望して、投げ出すように隠居した感じですね。一度は領地を幕府に返上してお家存続をあきらめようとしたとか」

 

 ぜんざいねこへび 「重定正妻のお豊が尾張徳川出身なので、御三家を通じて封土返上を相談していたようだ。しかし尾張大納言宗睦(むねちか)自身が藩政刷新に尽力した名君だったので、重定を思いとどまらせ、若い治憲に将来を託したという。おかげで治憲はいきなり大きな期待を寄せられることになった(笑)」

 

 あんみつえーん 「すでにお抱え両替商の三谷には新規の借金を断られるほど債務が膨らみ、江戸町人からは 『上杉と書いた紙を鍋釜に入れて煮れば金気が抜ける』 と笑われるほど窮乏ぶりが有名だったと言います。17歳の若さのうえ、老臣からは他家から来たことに反感を持たれてますから前途多難ですねぇ」

 

 ぜんざいねこへび 「とにかく人材だ。藩の現状をよく理解し、治憲と同じ熱量でもって働いてくれる同志が要る。小姓の佐藤文四郎を通じて白羽の矢を立てたのは、竹俣当綱(たけのまた・まさつな)、莅戸(のぞき)九郎兵衛、木村丈八。いずれも藁科松伯の家塾・菁莪館(せいがかん)に学んだので、<菁莪社中> を自称した」

 

 あんみつガーン 「本 その年九月、治憲は在江戸の藩士をすべて集め、藩政改革を宣言しました。命令ではなく、あくまで鄭重に、こうしなければお家が潰れる、との懇願口調です。とりあえずの施策は木綿着用・一汁一菜・藩主賄いを年1500両から209両に・奥女中を50人から9人に減らす、という経費切り詰めでした」

 

 ぜんざいねこへび 「しかも社寺行事中止、年間祝事延期、参勤交代人員減、贈答禁止、普請工事最小限、との徹底ぶりだ。不識庵謙信以来という名家の誇りをかなぐり捨て、虚礼を廃するとしたのだから、当然ながら老臣たちは激しく反発する。小藩秋月から来た小童がなに言ってるんだ、とね」

 

 あんみつぶー 「老臣というと、江戸の家老は色部又四郎、本国米沢の筆頭家老は千坂兵部ですね。どちらも父祖が 《忠臣蔵》 で吉良上野介の実子・上杉綱憲の執政として登場しますから、代々の家柄家老。このときは色部照長と千坂高敦が当主でした」

 

 ぜんざいねこへび 「江戸で先に改革の号砲を知った色部はともかく、米沢の千坂兵部が黙ってない。即座に江戸に上り、反対を表明した。もちろん主君だから激昂はしないにせよ、改革案の実行性のなさを説いたり、治憲が菁莪社中にたぶらかされてるのではないか、と若さを侮るような態度でね。治憲も強圧ではなく、淳々と説得を続ける」

 

 あんみつえーん 「千坂が米沢に帰ると、治憲は江戸藩邸で倹約策の実践を始めます。経済白書たる 《志記》 が完成した2年後の明和六年(1796)十月、19歳の治憲は人生初のお国入り。労がいを病んでいた藁科松伯が33歳で亡くなっていたことと、江戸に住まなければならない妻の幸(よし)を置いていくのは心残りだったでしょうけど、いよいよ本国で改革を行う正念場のときです」

 

 ぜんざいねこへび 「奥州道中の福島宿から西へ、板谷峠を越える12日間の旅路を、治憲はたった数十人の供回りで進んだ。上杉の参勤交代といえば1000人規模、槍鉄砲の軍装姿という物々しさが名物だったのを、これ以上ない質素に改めたわけだ。街道沿いの人々は驚くより嘲け笑ったという。迎えた本国の藩士たちにどう映ったか、想像するに難くないだろう」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 17歳にして江戸で上杉家督を継ぎ、人材を得て改革の決意を固めた上杉治憲。

 その前途には、聞きしに勝る藩の悲惨な実情と、抵抗勢力というべき固陋な本国の重臣たちがありました。

 

 次回、米沢藩政改革はじまる のおはなしです。

 

 

 それではごきげんようねこへびニコ