R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコは、前期講座の合間を縫って、自分が興味を持ったテーマもお勉強中。

 

 今日は暑いなか、ぜんざい教授ねこへびの研究室に、史料を見せてもらいに来たようですよ...|д゚)

 

 

 

 

チョコカップケーキ プリン コーヒー

 

 あんみつゲラゲラ 「先生、こんにちは~。ここにおられると聞いたんで......あっ、それヤマザキと丸永製菓がコラボした 《クリームたっぷりあいすまんじゅう風オムレット》 じゃないですかぁ。去年も初夏に出てたんですよね、今年は初めてみた」

 

 ぜんざいねこへび 「常温なのにアイスっぽいんだよね~。クリームとつぶあんが相性ピッタリでふんわりしてて。しかし君ときたら、おやつタイムを見計らったように現れるなぁ」

 

 あんみつウシシ 「ヒヒヒ。それはそうと、今日は先生に近世経済史の資料をお借りしようと思って。これまで享保(→「徳川吉宗⑦」)・寛政(→「大御所半世紀③」)・天保(→「天保遠山桜③」)と徳川幕府の三大改革をやりましたけど、江戸時代の改革といえば藩政においても名君がたくさん挙がります。その中でもっとも著名な、上杉鷹山(1751~1822)の施政を詳しく知ろうと思って」

 

 ぜんざいねこへび 「あ~、たしかに鷹山公は藩政改革の成功者として有名だ。実は戦後から1990年代まで、地元米沢以外での知名度は低かったんだがね。勤倹貯蓄を旨とする政治手法は、高度経済成長からバブル期までお手本にしようと思わなかったらしい」

 

 あんみつほっこり 「ボクの聞いた話だと、かのジョン・F・ケネディ大統領(1917~1963)が日本の記者団に知ってる歴史上の日本人を聞かれ、上杉鷹山の名を挙げたら、日本人記者の方が鷹山を知らなかったって。ケネディ大統領は来日してないから、その真偽は不明ですけど」

 

 ぜんざいねこへび 「それはセオドア・ルーズベルト大統領(1858~1919)の話だとも言われる。またフランスのジョルジュ・クレマンソー首相(1841~1929)も上杉鷹山を称賛してたとかね。彼が日本の茶器蒐集家だったのは本当だ。もし彼らが鷹山を知る機会があったとしたら、内村鑑三(1861~1930)の著書だろう」

 

 あんみつにやり 「明治大正期のキリスト教学者ですね。1908年に英語で出版した 「Representatible Men of Japan(代表的日本人)」 では、西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮と並んで上杉鷹山が紹介されています。中江は儒教系の陽明学者ですから、西郷以外は政治家というより篤志家が多いような」

 

 ぜんざいねこへび 「日本においても帝国時代の国定修身教科書では、明治天皇、二宮尊徳に次いで上杉鷹山が取り上げられている。彼の人君としての心得にある、『人民は国家に属したる人民にして我私すべき物には之れ無く候』 というのが忠君愛国の国家像に合ってたんだね」

 

 あんみつねー 「それで歴史観の変わった戦後は忘れられてたんですねぇ。それがバブル崩壊後の経済不況で、<財政改革を成功させた先人> として脚光を浴びることになります。初めてテレビで特集されたのは 『知ってるつもり?!』 って関口 宏さん司会の番組でしたか。1992年12月......う~ん、まさにバブルがハジけて、株式に続いて地価も下落しだしたころ」

 

 ぜんざいねこへび 「それにしたって鷹山の一面に過ぎない。帝国時代は忠孝道徳、現在は財政改革とそのときどきの社会ニーズに合わせた鷹山像が投影され、それが尊敬されてるわけだ。当然ながら人間表もあれば裏もあり、陽もあれば陰もある。歴史上の人物を見るときは、あくまで客観的に包括的にね」

 

 あんみつウインク 「はい、そうします......鷹山こと上杉治憲(はるのり)は米沢藩に養子入りした人ですね、出身は日向国高鍋藩(宮崎県児湯こゆ郡)3万石、秋月家。元は筑前国秋月の豪族だったのが、豊臣秀吉の九州征伐を経て高鍋に移封されました」

 

 ぜんざいねこへび 「秋月種美(たねよし)の次男に生まれ、幼名を松三郎。兄種茂ものちに高鍋藩史上屈指の名君と称えられる。ふたりの生母春姫は上杉綱憲の娘だったので、9歳にして嗣子のない米沢藩主・上杉重定の養子に決まった。現在の保守論者がなぜか忌み嫌う女系での相続は、この時代ふつうだよ」

 

 あんみつぶー 「上杉家はかの不識庵謙信を祖に持つ誇り高い名家です。未婚だった謙信は姉の子・景勝を養子とし、彼が豊臣秀吉によって会津120万石に封じられました。しかし関ヶ原合戦では西軍に与し、徳川幕府下では米沢藩30万石に減封です」

 

 ぜんざいねこへび 「さらに寛文四年(1664)閏五月、上杉景勝の孫・綱勝が26歳にして嗣子なく急逝してしまい、武家諸法度の規定によりお家断絶となるところだった。綱勝夫人お媛(はる)の父・保科正之は当時の幕閣の重鎮、あたら大名家を潰して藩士を路頭に迷わせることを嫌う情けの人だったので、懸命にとりなして15万石へ減封と引き換えに末期養子を認めた」

 

 あんみつショック 「それが吉良上野介義央(よしひさ)の子・綱憲ですね(→「赤城忠臣蔵⑤」)。吉良夫人の富子が綱勝の妹でした。家名存続したとはいえ、藩士の召し放ち(リストラ)をしなかったので、侍人口は5千人(適正は3千人弱)。以後財政難にあえぐことになります。実に15万石中、家臣への俸禄が13万3千石です。気位だけは謙信以来のプライドのままという」」

 

 ぜんざいねこへび 「米沢城の御書院は贅を尽くし、参勤交代や交際費は62万石伊達家並みだった。幕府からは江城の石垣や濠浚えなどお手伝い普請を命じられ、領内は大雪、洪水、疫病、飢饉に見舞われる。これで財政破綻しないわけがないだろう。松三郎が秋月から養子入りした米沢藩はこんなありさまだったのさ」

 

 

 

 

 

 今回から始まる新シリーズは上杉鷹山。

 江戸時代屈指の名君が挑んだ藩政大改革を見ていきましょう。

 

 次回、十七歳の藩主 のおはなしです。

 

 

 それではごきげんようねこへびニコ