*5月26日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のぜんざい教授ねこへびと、教え子の院生・あんみつ君ニコの歴史トーク、今回のテーマは戦国時代美濃国。

 

 本日がシリーズ最終回、一色治部大輔龍興 のおはなしです。

 

 

 

 

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 あんみつアセアセ 「先生、永禄四年(1561)五月、一色義龍が33歳で急逝しました。跡取りの龍興(たつおき)はまだ15歳。すると尾張の織田信長が即座に侵攻を開始します。森部の戦いで墨俣砦を守っていた義龍六人衆のふたり、日比野清実、長井衛安が討ち果たされてしまいました」

 

 ぜんざいねこへび 「前々回言ったように、信長は舅の斎藤道三とは関係良好だった。取って代わった義龍とは敵対し、桶狭間合戦の直後の木曽川越えでは撃退され、逆に尾張国内に調略の手を伸ばされている。その強敵義龍の死は、信長にとっては僥倖だった」

 

 あんみつねー 「森部の戦いというと、信長の寵愛を巡って同朋の拾阿弥を斬り、逐電していた前田犬千代(利家)が手柄首を獲って帰参したことでもプチ有名ですね。損害を受けながらも立て直した一色勢は、十四条(本巣市)で信長の従兄弟、源三郎広良を討ち果たして織田軍を撤退させることができました」

 

 ぜんざいねこへび 「残った六人衆、日比野弘就、竹腰尚光、氏家卜全、安藤守就は以後若い一色龍興を補佐し、合議制で美濃統治を図ったようだ。義龍が混乱させてしまった臨済宗妙心寺系の宗教問題も、騒ぎの元である別伝座元を放逐して決着させている」

 

 あんみつおーっ! 「よろしき補佐を持ったはずの龍興は、思わぬ霹靂に見舞われました。永禄七年(1564)二月、安藤守就とその娘婿、竹中半兵衛により稲葉山城が占拠され、龍興と日比野、竹腰が避難する事態です。警備していた斎藤飛騨守は討たれ、城下が火の海となりました」

 

 ぜんざいねこへび 「巷説では、暗愚で遊興にふける龍興と緩んだ家臣団を諫めるための半兵衛のひと芝居、などと言われるが、そんな暢気な騒乱じゃない。竹中半兵衛はのちの木下藤吉郎立身の軍(配)師として、かの諸葛孔明のイメージを投影されているから、そのキャラクターはほとんど江戸時代に作られた虚構のものだ」

 

 あんみつもぐもぐ 「そもそも、半兵衛の父竹中重元は道三の味方をして、家臣団から干されてたんですよね。子の半兵衛が復帰を狙って、岳父の安藤とともに御所巻(ごしょまき=家臣が主君に強訴)を試みたのかも知れません。十月に至って半兵衛は菩提山の居城に撤収、龍興の稲葉山帰還が成りました。戦闘はしていないので、どういう手打ちがあったのかはまったくの不明です」

 

 ぜんざいねこへび 「安藤守就は責任を負い隠居したが、その子・定治が出仕し日比野らと和睦している。事件は落着したとはいえ、龍興の求心力がガタ落ちしたのは言うまでもない。国内豪族から信長に下剋上(鞍替え、ええとこ付き)が相次ぎ、永禄八年(1565)八月には信長と敵対していた犬山城の織田信清が追い落とされると、美濃と尾張の防波堤は無くなった」

 

 あんみつ真顔 「信長は悠々と稲葉山侵攻のための付け城を築いたり、侵攻の準備を進めているのに、19歳の龍興はどうすることも出来ません。そんなとき、近江矢島に逃れていた足利義秋(義昭)から、自身上洛のための助勢を求める書状が信長と龍興のもとに届きました」

 

 ぜんざいねこへび 「龍興にしたら、これを潮に濃尾停戦としたかったろうが、いったん承知した信長が永禄九年(1566)閏八月、木曽川沿いの河野島を渡って稲葉山城を奇襲した。おりからの台風で増水したので軍勢は進めず、一色勢の追撃を受け撤退。このあおりで足利義秋は上洛をあきらめ、越前朝倉義景の庇護を受ける。信長の供奉で入京が叶うのは2年後のことだ」

 

 あんみつしょんぼり 「このときの信長の約束やぶりはかなり卑劣ですね。誰のトクにもならないという。撃退に成功した龍興は、武田信玄と同盟し、足利義秋に臣従を約して治部大輔を任官、一字拝領を受けて <一色治部大輔義棟(よしむね)> を名乗りました。龍興も改名しましたかぁ(笑)。でもひと息つけた感じは窺えます」

 

 ぜんざいねこへび 「さらに <義紀(よしのり)> と署名した書状も残ってる。しかし織田信長は、一色姓をガン無視して斎藤と呼び続けた。一色の家格が織田より上だからだ。歴史用語として斎藤義龍、斎藤龍興で通ってるのはそのせいで、龍興のことを、‟美濃之辰起” なんてテキトーに書いた手紙があるくらいだけど、本人たちがそのように名乗ったことはない」

 

 あんみつアセアセ 「その信長によって、とうとう稲葉山失陥のときを迎えます。永禄十年(1567)五月、父義龍の七回忌法要を施すころには、すでに離反していた西美濃の安藤守就、稲葉一鉄に加え、重臣の氏家卜全までが信長に鞍替え内通していました。八月、織田軍は城下に火を放ったうえ稲葉山城を包囲し、龍興は降伏。日根野弘就らに守られ、伊勢長島に逃亡します」

 

 ぜんざいねこへび 「このときの信長は、とにかく早く稲葉山を抑えたかったようで、龍興を討ち果たすことにはこだわってない。龍興にしても、竹中半兵衛のときがあるから、いつか奪還の機会もくるだろうと交戦を避けてすぐ脱出したようだ。この淡い期待は外れ、歴史的にはこれをもって戦国大名美濃一色(斎藤)氏の滅亡となる」

 

 あんみつショック 「その後、龍興は京都を支配していた三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成主税)を頼ります。永禄十一年(1568)九月、信長が足利義昭に供奉して上洛すると、速攻で三好三人衆を追い落としたので、龍興はさらに越前朝倉氏に身を寄せ、美濃帰還を目指しました。まるでかつての土岐頼芸のよう。せっかくの一色家格も、圧倒的武力の前には無意味ですねぇ...」

 

 ぜんざいねこへび 「越前にとどまるうちにも、信長の威勢は畿内全域に及ぶようになっていた。元亀四年(1573)七月には足利義昭を京都から追って、教科書でいう室町幕府終焉となる。天正と改元した八月、信長は近江浅井長政、越前朝倉義景に大攻勢をかけ、一気に亡滅させた。このとき刀禰坂(敦賀市)において激戦があり、参陣していた龍興も討死している。享年27」

 

 あんみつほっこり 「人生の大半が信長との戦いで、最期は朝倉と運命を供にしたかたちですね。広くイメージされる龍興は竹中半兵衛や信長の引き立て役というか、大名家を潰した暗愚な当主というものですけど、稲葉山城を追われたのは21歳。若くしてわけのわからないまま歴史の激動に翻弄され、家臣にも裏切られた気の毒な人に思えます。先生、今回も勉強になりました~」

 

 

 

 

 

 これで 「美濃戦国策」 シリーズは完結です。

 長々のお付き合いをいただきありがとうございました。

 

 また、新しいテーマでのぜんざい教授とあんみつ君の歴史トークにぜひぜひご期待くださいませ。

 

 

 それではごきげんよう龍

 

 

*** ねこへび参考図書ニコ ***

 

・杉山 博 「日本の歴史11 戦国大名」

・木下 聡 「斎藤氏四代」

・谷口克広 「織田信長の外交」 「織田信長合戦全録」

・藤本正行・鈴木眞哉 「偽書 『武功夜話』 の研究」

・海音寺潮五郎 「武将列伝・斎藤道三」 「同・竹中半兵衛」

・司馬遼太郎 「国盗り物語」