*5月18日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のぜんざい教授ねこへびと、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは戦国時代美濃国。

 

 本日は、一色左京大夫義龍 のおはなしです。

 

 

*** 斎藤三代改名歴 ***

 

峯丸・法蓮房→松波庄五郎→西村勘九郎→長井新左衛門尉

↓子

長井規秀(のりひで)→斎藤利政→斎藤道三

↓子

斎藤利尚(としひさ)→斎藤高政→一色(いっしき)義龍

 

 

 

 

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 あんみつにやり 「先生、父道三を斃して美濃国主となった斎藤高政は、地位安定のため政治家の顔を強く見せます。隣国の近江六角と盟約したり、朝廷に働きかけて(要は献金)正式に治部大輔の官職を得たこともそうです。道三の時期は闘争に明け暮れ、政治というものはなかった感じでしたから」

 

 ぜんざいねこへび 「巷間言われる、道三が美濃加茂の商地を開放する楽市・楽座を敷いて専売制を撤廃、それを後年の織田信長が模倣したというのは司馬遼太郎 『国盗り物語』 のフィクションだ。しかし微罪の者でも牛裂き、釜茹でといった残忍な処刑を命じたことは 《信長公記》 に記述されている」

 

 あんみつ真顔 「力づくで土岐氏守護領国を奪取したわけですから、従わせるため見せしめのような圧政を採ったんですね。代替わりした高政はそれを受け継ぐことはできません。父殺しの汚名もありますから、穏健で徳望ある国主にならなければ」

 

 ぜんざいねこへび 「高政は日根野弘就・竹腰尚光・日比野清実・長井衛安・桑原直元・安藤守就の六人衆を奉行として、農業用水を巡る裁判や治水対策を行った。木曽三川...木曽川・揖斐川・長良川の水害は今でも甚大だからね。合戦だけじゃなく民政にも目を向けていたことがわかる」

 

 あんみつウインク 「宿老六人衆は、いずれも道三の時代に美濃で知行主となった新興の豪族です。守護土岐氏や守護代斎藤氏の没落により、代わって頭角を現した面々が、道三じゃなく高政を支持したんですね。高政生母の父・稲葉一鉄は道三に味方したので、有力ながら竹中重元と同じく遠ざけられていました」

 

 ぜんざいねこへび 「六人衆と合議のかたちにしたのは、道三が独善に過ぎ人望がなかったことを鑑みたのだろう。一方で豪族への知行宛いを貫高制にして、納税と軍役を課している。高政が印判状を出して公的書類とした形跡もあるから(写しのみ)、美濃の支配体制はかなり近世的に進歩していたと評してよい」

 

 

斎藤高政(一色義龍)像(常在寺蔵)

 

 

 あんみつもぐもぐ 「本 永禄二年(1559)四月、高政は上洛しました。将軍足利義輝が三好長慶と和睦して、近江国朽木谷から京都に帰還していたので、その挨拶のためです。治部大輔の官職は将軍家には無断でしたから、ご機嫌伺いしなければ。将軍家の権威に浴するのは、すなわち美濃支配の正当性にもなります」

 

 ぜんざいねこへび 「この上洛は将軍義輝に望外に歓迎され、相伴衆に列せられた。相伴衆は足利幕府の家格序列では三管領(斯波・細川・畠山)四職(山名・赤松・一色・京極)級という最高の待遇で、文字どおり儀礼の席で将軍と食事を供にするものだ。乱世では三好長慶、朝倉孝景、上杉謙信、毛利元就らもこの栄を受けた」

 

 あんみつウシシ 「さらに同年八月、一色(いっしき)家督職を幕府から公認。同時に将軍義輝から一字拝領して <一色義龍> と改名します。一色家は幕府の侍所を司り、全盛期には三河・若狭・丹後・伊勢志摩を領した守護大名の名家です。美濃守護代家の苗字である斎藤から、またグレードアップ」

 

 ぜんざいねこへび 「同時に六人衆もそれぞれ一色家臣の姓に改名させる。安藤が伊賀、竹腰が成吉、日根野が延永というようにね。桑原直元は改名後の <氏家卜全> の方が有名だ。これもすべて出世魚のような家格引き上げのため。おかげでわれわれ後世人にとってはややこしいことこの上なくなった(笑)」

 

 あんみつウインク 「改姓といっても、好き勝手に名乗るわけにはいかないですよね。土岐頼芸が存命だから土岐にすることはできませんが、ちょうど一色氏は応仁の乱以降の丹後争乱で没落。一色左京大夫義清をもって嫡流が絶えていました。誰にも文句を言われる心配はありません」

 

 ぜんざいねこへび 「戦国ビデオゲームなどで有名な一色義道は架空の人物なので(江戸時代中期の 《一色軍記》 で創作)、当時の足利幕閣に一色氏はいなかったわけだ。永禄四年(1561)二月には左京大夫に任官。これは足利幕府重鎮の官職だから、一色左京大夫義龍は、旧主土岐氏も、隣国の六角や朝倉、織田、守護職の今川や武田すらしのぐ家格を得たと言える」

 

 あんみつぼけー 「それでも父殺しの汚名は、ずっと義龍の引け目になったようですね。おりしも妻や子が病死して気弱にもなったのか、美濃で盛んだった臨済宗妙心寺の別伝座元(べつでん・ざげん)に師事し、伝灯護国寺を建立して厚遇すると、自ら禅に傾倒して安寧を求めました」

 

 ぜんざいねこへび 「ところが、これが災いを招く。別伝は妙心寺でも霊雲派の僧侶だったのだが、美濃の主流は東海派といった。国主義龍の師檀によりにわかに霊雲派が優勢となり、両派が鋭く対立し始めたんだ。戦国大名にとって宗教勢力との融和は欠かせないのに、義龍はあくまで別伝を保護したので、京都の妙心寺や朝廷・幕府をも巻き込んだ政争になってしまった(別伝の乱)」

 

 あんみつしょんぼり 「義龍唯一の失政と言えますね、それほど別伝を通して父殺しを懴悔したかったんでしょうか。あろうことか永禄四年(1561)五月、義龍自身が33歳で病死してしまいます。ふだんからほうぼうで評判の良い生薬を求めていましたから(『独見集』)、六尺五寸の巨体とはいえ健康は優れなかったようです」

 

 ぜんざいねこへび 「世の人は 『天道恐ろしき事』 と稀代の親不孝者である義龍は天罰を受けたと評した。道三を斃して満5年、そのあいだに美濃一国で大いに統治の実を挙げた手腕は見事だったと言える。別伝の乱はおいとくとして。それにしても享年33は若すぎた。まさに前年、桶狭間山で今川義元を相手に大戦果を挙げた織田信長によって、美濃は猛攻にさらされる」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 美濃国主となって5年間の活動で、将軍家相伴衆、一色改姓と家格を引き上げ、もっとも安定した地位の戦国大名となった一色義龍は、惜しくも早世してしまいました。

 

 次回がシリーズ最終回、一色治部大輔龍興 のおはなし。

 

 

 それではごきげんようねこへびニコ