*4月28日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のぜんざい教授ねこへびと、教え子の院生・あんみつ君ニコの歴史トーク、今回のテーマは戦国時代美濃国。

 

 本日は、斎藤左近大夫利政 のおはなしです。

 

 

 

 

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 あんみつショック 「先生、長井新左衛門尉の名跡を継いだ斎藤道三の生年は、かつては明応三年(1494)と言われてました。最新研究では永正元年(1504)。史料上の初見は30歳になった天文二年(1533)六月、長井新九郎規秀(のりひで)名義です。それにしても、親子してころころ名前が変わるからややこしい...」

 

 ぜんざいねこへび 「武士は名を重んじる、なんて言うけど、戦国時代の武将は頻繁に改名してるよ。支配者としての正当性と権威を誇示するのが第一だから。長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→不識庵謙信とか、木下藤吉郎→羽柴筑前→豊臣秀吉とか、松平元信→松平元康→徳川家康とか枚挙にいとまはない」

 

 あんみつしょんぼり 「規秀がまずやったのは、同役である長井藤左衛門尉景広の追い落としです。景広の父は長井長広。新左衛門尉親子を取り立ててくれた恩人の子を討ち果たすとは......親同士はうまくいってても、息子となるとライバルなのかも知れませんけど。天文四年(1535)八月、長良川氾濫による大洪水で美濃国内が混乱したのに乗じ、戦乱が起きました」

 

 ぜんざいねこへび 「乱の実相はよくわからないが、本願寺や醍醐寺など僧侶の日記に書かれているから、民衆の罹災をよそに戦争してる武士への無情観があったのだろう。さらに翌年九月、近江に追われた土岐頼武の子・次郎頼充が六角定頼と越前朝倉孝景の援護を受けて美濃復帰を画策、土岐頼芸(よりのり)を攻める」

 

 あんみつもぐもぐ 「六角と朝倉は近隣の大々名です。合わせて5000人もの軍勢を、土岐頼芸を補佐する長井規秀が撃破しました。大坂本願寺の証如上人に援軍を求めたり、家族を伊勢に疎開させたり苦戦を窺わせますけど、さすがの采配ぶりですね。天文七年(1538)七月には停戦成立、土岐頼充は尾張に亡命しました」

 

 ぜんざいねこへび 「この勲功で、規秀は筆頭家老格、斎藤新九郎利政と改名する。斎藤は美濃の守護代家。しかも <利> 字はその嫡流の名乗りだ。かつて道三の実名は <秀龍(ひでたつ)> と思われていたが、一字拝領したという六角義秀が実在しないため(偽書 《江源武鑑》 で創作)、今ではまったく否定された」

 

 あんみつにやり 「天文八年(1539)八月の発給文書では、斎藤左近大夫(さこんたいふ)の通称で署名してます。朝廷の近衛府判官に就任したわけじゃなく勝手に名乗っただけですけど、実名を呼ぶ習慣がなかったですからね。周囲からも ‟斎藤左近大夫、長井新九郎事なり” と改名が知られたほど有名人になっていました」

 

 ぜんざいねこへび 「土岐頼芸家中で重きを成したとはいえ、土岐一族の揖斐光親や斎藤本家の斎藤利茂、長井一族などは必ずしも利政を良く思わなかったことだろう。数年の平穏を経た天文十二年(1543)、大桑城(山県市)で激しい戦闘が起きた。土岐次郎頼充が尾張からふたたび美濃に侵攻してきたからだ」

 

 あんみつねー 「尾張守護である斯波義統(しば・よしむね)と守護代織田信秀、越前朝倉孝景の助勢ですね。しかし近江六角定頼は、このたびはすでに土岐頼芸と和約しており動きませんでした。頼芸の妹が定頼の後添えです。また、北近江の浅井亮政(すけまさ)の娘と利政の子・新九郎(のち義龍)が婚約しています」

 

 ぜんざいねこへび 「この数年間で着々と地盤を固めていたのがわかる。浅井が姻戚を結んだのが土岐でなく利政であることは、美濃の実権が彼にあった証拠だ。同時に浅井が朝倉と一心同体であるという巷説は事実でないことがわかる。その一方、尾張守護である斯波氏と守護代家である朝倉・織田との関係は微妙だった」

 

 あんみつおーっ! 「斯波氏は足利幕府の重鎮として越前守護職でもありましたから、越前を朝倉に乗っ取られた意識ですね。それでもなんとか土岐頼充の懇願で、南北からの美濃進軍が実現しました。越前の将は高名な朝倉宗滴(そうてき,教景,1477~1555)。さすがの采配で稲葉山城下まで押し寄せ、火を放ちました」

 

 ぜんざいねこへび 「天文十三年(1544)九月、利政は25000人もの連合軍と決戦し勝利を得た。木沢左馬允という牢人が利政に雇われ、彼の手勢が奇襲したおかげだ。連合軍は数百人が討ち果たされ、2000人が木曽川に流されたという。織田信秀は命からがら退却。尾張勢壊滅を見た朝倉宗滴も、土岐頼充を伴い撤収した」

 

 あんみつうーん 「美濃を確保した土岐頼芸は、利政の勧めで天文十五年(1546)九月に頼充と和約し、帰国を許します。あんなに激しく戦った相手を赦すとは意外ですけど、もし他国にいたらいつまた攻めて来るかわかりませんからね。このとき利政は娘を土岐頼充と結婚させ、自家の婿に取りました。もう反抗はさせないぞと」

 

 ぜんざいねこへび 「その娘こそ後の織田信長夫人、濃姫とか帰蝶とか呼ばれる女性だ。まだ満10歳くらいだから形式のものだがね。頼充は翌年十一月に24歳で死去。真相は不明だが、利政によって始末されたとの風聞が当時からあった。結果として、美濃国守護職土岐家の内紛はこれで収まったことになる」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 土岐頼芸・次郎頼充の叔父甥の家督争いで美濃は戦乱。これに乗じるかたちで長井規秀は斎藤利政と改名、土岐家の筆頭家老として大きな戦功を挙げました。

 

 次回、斎藤山城守道三 のおはなし。

 

 

 それではごきげんようねこへびニコ