*4月21日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のぜんざい教授ねこへびと、教え子の院生・あんみつ君ニコの歴史トーク、今回のテーマは戦国時代美濃国。

 

 本日は、長井新左衛門尉 のおはなしです。

 

 

 

 

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 あんみつほっこり 「本 先生、かつて斎藤道三一代記と思われた前半生は、道三の父・長井新左衛門尉の人生でした。出自は貴族日野家の青侍だった松波氏の庶流というのが現時点の最有力で、山城国は西岡(現:京都府西京区)が本貫地です。幼くして日蓮宗妙覚寺の小僧になっていました。法名は峯丸改め法蓮房」

 

 ぜんざいねこへび 「うん、生年は応仁の乱(1467~1477)のさなかだろう。修行時代に念友だった南陽房が美濃長井氏の出自だったことが機縁となる。南陽房は日運上人となって、実兄の長井豊後守利隆に招かれ美濃の鷲林山常在寺住職に赴任。常在寺は守護代斎藤氏の開基だ。法蓮房は彼を慕って妙覚寺を脱走、還俗した」

 

 あんみつゲラゲラ 「有名なのは、大山崎の荏胡麻座に入り、松波庄五郎を名乗る油売りをしていた逸話ですね。一文銭を漏斗がわりにして、油をこぼさず目分量で正確に注文量を客の油壷に入れる特技があったと言います」

 

 ぜんざいねこへび 「大山崎の油座は石清水八幡宮を本所とする中世最大のギルドだ。寄人は高い通行税を取る荘園ごとの関所をロハで通過できる特権があったから、庄五郎も自由に美濃国に行けたわけだ。なつかしい日運上人と再会すると、実家の長井家に出入りを許された。美男子なうえ歌舞音曲、連歌のたしなみがあり、諸国のおもしろい話を聞かせてくれる評判の人物だったという」

 

 あんみつぶー 「やがて商人を辞め、日運の甥である長井家の当主・越中守長広(長張とも)に紹介してもらいます。長広はさらに主君の土岐政房に推挙してくれましたが、嫡男の頼武が新参者を毛嫌いしたため、鷺山(さぎやま)城にあった弟の土岐頼芸(よりのり)に仕えることになりました。彼は絵筆が好きな文人肌ですから、庄五郎の芸達者ぶりは気に入ったでしょうね。といっても戦乱の世、歌い踊るだけの人物では役に立ちません」

 

 ぜんざいねこへび 「土岐頼芸は長井家の家老・西村家に後継ぎがないことから、庄五郎に遺跡(ゆいせき)を与え、西村勘九郎と改名させた。また軽海村(かるみ,現:本巣市)に知行地を宛ったくらいだから、武士としての勲功もあったのだろう。永正十六年(1519)六月に土岐政房が亡くなると、美濃は頼武・頼芸兄弟の家督争いが勃発する」

 

 あんみつウインク 「庄五郎改め西村勘九郎は、当然ながら長井長広ともども土岐頼芸を支持して戦い、大永五年(1525)六月に守護館である福光御構(おかまい)を占拠しました。この争いで守護代斎藤氏が没落し、稲葉山城を接収。土岐頼武の反攻はなお数年続きますけど、美濃太守として頼芸の地位は保持されました」

 

 ぜんざいねこへび 「斎藤氏の守護代としての権益は、長井長広と西村勘九郎に恩賞として与えられたのだろう。勘九郎は長井新左衛門尉と改名し、土岐頼芸の直臣に取り立てられた。このたびの戦いでは長井家も戦死者を出しているから、人材を見込まれて身内扱いされたのは新左衛門尉にとって幸運だった」

 

 あんみつにやり 「本 実名が伝わらないのは残念ですね。仮説の利隆とか基就とかは根拠弱いみたいで。史料上の初見は大永六年(1526)六月、東大寺が美濃国内の荘園に使いを出したさい、長井新左衛門に百文と油煙(摺墨)を贈ったというもの。このころには土岐家中で重きを成す存在になっていたようです」

 

 ぜんざいねこへび 「その後、京の足利幕府から直に新左衛門尉宛ての書状があったり、尾張の織田氏から援軍の要請があったり、汾陽寺という領内の臨済寺院絡みの訴訟を頼まれたりしているから、その地位はもはや長井長広をも越え、土岐氏の家老格だったといってよい」

 

 あんみつおーっ! 「天文二年(1533)二月、長井長広が亡くなり、三月には新左衛門尉も病死しました。すでに家督は嫡男規秀(のりひで,のちの道三)に譲っており、自らは長井豊後守を名乗っていたと思われます。京都からわざわざ陰陽師を呼んで快癒祈願したと言いますから、いかに大物だったかわかるような」

 

 ぜんざいねこへび 「長井豊後守が最後に史料で見られるのは、大仙寺という土岐家祈願所の臨済寺院への臨時段銭を免除すべきかどうか、豊後様に問い合わせてくれという奉行人同士の書状だ。こんな細かい仕事まで任されていたわけだ。嫡男の規秀はすでに30歳前後になっていて、孫の新九郎(義龍)も生まれていた」

 

 あんみつ真顔 「新左衛門尉が亡くなるころには、じゅうぶん固めてくれた足場を利用しての規秀登場となるわけですね。といっても、没落したとはいえ守護代斎藤氏の一族がおり、まったく彼らを差し置くわけにはいきません。あの明智光秀の重臣・斎藤利三の祖父にあたる斎藤利匡(としまさ)が土岐頼芸の側近でした」

 

 ぜんざいねこへび 「土岐氏の分家も石谷(いしがい)・揖斐(いび)・久々利(くくり)などあるが、もっとも有名なのは明智だろう。明智定明という人物が頼芸側近にいたのだが、明智光秀からすると同族とはいえかなり遠かったようだ。これら上司と言うべき美濃の豪族を、代替わりした長井規秀は主家土岐氏ごと追い抜いていく」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 松波庄五郎→西村勘九郎→長井新左衛門尉 と名を変え地位を変え、従来言われた斎藤道三一代のものではなかったにせよ、その立身ぶりは戦国の世でもやはり特異と言えましょう。

 

 次回、斎藤左近大夫利政 のおはなしです。

 

 

 それではごきげんようねこへびニコ