*4月7日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコ、今回は近現代史のしらたま教授オバケとの歴史トークで、テーマは天保の改革周辺。

 

 本日がシリーズ最終回、弘化嘉永遠山桜 のおはなしです。

 

 

 

 

お弁当 🥪 生ビール

 

 あんみつにやり 「しらたま先生、弘化二年(1845)三月に53歳で南町奉行を拝命した遠山金四郎は、急進強引だった天保改革とうって変わって穏健な社会政策を打ち出します。水野忠邦が解散させた 《株仲間》 の再結成を認めたのもそうですね」

 

 しらたまオバケ 「その代わり、かつてのような幕府への巨額拠出と引き換えに商品流通の独占を許すという性質には戻さなかった。献金を受け付けず、株仲間への加入・脱退は自由にすることで、資金の融通がメインのごく風通しのいい組合にさせたんだ」

 

 あんみつほっこり 「本 『泰平の御政事は町人ども気合の儀大切』 ですか...幕府の都合じゃなく、社会秩序の基本が民衆側にあるとの遠山の姿勢がわかりますね。懸念された江戸の品不足や物価高は起こらず、この献策はかなり成功しました」

 

 しらたまオバケ 「また、江戸周辺の在郷商人...つまり米作りの副業で畑作の余剰品を売ってい農民たちにも問屋を組ませ、管理しやすくすると同時に、収入に応じて年貢の銭納を認めた。これにより都市資本と農村が共通経済圏となり、お互いに原料も資金も調達がスムーズになったんだ」

 

 あんみつウシシ 「水野のような押し付けじゃなく、始めからそうしてればよかったのに。というか、民衆の生活の実情に通じてた遠山だからこそそこまで気が回ったのかも知れませんね。社会経済面とともに、この時期の幕閣がもっとも頭を悩ましてたのは、外交というか海防問題でした」

 

 しらたまオバケ 「天保十五年(1844,十二月に弘化改元)七月、オランダ軍艦パレンバンが長崎に来航し、ハーマン・コープス艦長からウィレムⅡ世国王の親書がもたらされた。教科書的には 《オランダ国王の開国勧告》。アヘン戦争における清国の敗北により、日本にも兵乱の危機が起こり得ると警告、鎖国政策の見直しを説いた手紙だ」

 

 あんみつぶー 「本 へぇ、親書を起草したのはあのシーボルトでしたか。『蒸気船創製せしよりこのかた、各国相距(へだた)ること遠きも、猶近きに異ならず(蒸気船が発明されてから、今や各国間の距離は遠くても近いも同然)』 というあたり、学者らしいですねぇ。この親書に対し、老中・阿部正弘は 『祖法歴世の法(わが国は鎖国政策が伝統)』 と謝絶しました」

 

 しらたまオバケ 「これをもって、外圧迫る危機というのに暢気な幕閣の無為無策、と批判されてきた。しかし阿部の考えはそんな浅くはない。親書にはオランダ国王が諸外国への仲介を買って出るともあったので、警戒感を持ったわけだ。ヘタに頼んだら、それこそオランダに対外交渉権を握られかねないとね」

 

 あんみつイヒ 「そうしてるあいだに、外国船の日本沿海航行が続発します。フランス軍艦は琉球那覇、対馬に、イギリスは長崎、下田に、アメリカは松前、浦賀に。いずれも上陸を拒否したらすんなり退去しましたけど、そのうち抜き差しならない事態がくることは予想がつきます」

 

 しらたまオバケ 「阿部老中は弘化二年(1845)七月、海岸防禦御用掛を新設し自ら座長、川路聖謨・江川太郎左衛門・高島秋帆・佐久間象山ら幕内外の洋学通を抜擢した。御三家の水戸斉昭は排外思想まるだしの外国船打ち払いを主張し、幕閣から公家朝廷に至るまで運動しだしたので、往生した阿部老中に強制隠居させられる。阿部が自主開国のための準備をしていたのは確かだ」

 

 あんみつ真顔 「ミラード・フィルモア米大統領が就任演説で日本市場開拓を宣言したのは1850年7月。オランダ商館からの度重なる予告を経てマシュー・ペリーが来航するのは嘉永六年(1853)六月のことです。諸国に沿海警備を命じたり、観音崎に砲台を築いたり、佐渡に台場を作ったり急ぎましたけど、結局ペリーの軍艦外交に難渋することになります」

 

 しらたまオバケ 「阿部老中はその後も講武所や長崎海軍伝習所、洋学所を創設して海防近代化を進め、欧米列強との難しい交渉を主導するが、安政四年(1857)六月に39歳で亡くなった。阿部を失った幕閣には大老・井伊直弼が登場し、その強圧政治で安政の大獄を招いてしまう経緯は前に見たとおりさ(→「安政魔風花⑥」 に続く)」

 

 あんみつウインク 「そのときの南町奉行は池田播磨守頼方(1801~1876)。大獄の逮捕者や桜田門外の変での裁判官を担当したんですから、この人もたいへんでしたねぇ。彼は遠山が奉行だったころは勘定奉行で、あの国定忠治を処刑していました。講談では人気のある侠客です。赤城の山も今宵かぎり~って」

 

 しらたまオバケ 「忠治が上州の親分になり赤城山一帯を根城にしたのは天保六年(1835)、26歳のとき。賭博や盗賊で荒稼ぎするヤクザなのに慕われたのは、縄張りの領民は保護し、飢饉のさい米を恵んだり、用水池工事をやって復興に尽力したからだ。その資金はよそから強奪してきたわけだから、立派とは言えないだろ」

 

 あんみつぼけー 「ヤクザ同士の抗争も多かったから殺人事件も多いし、バクチの寺銭稼ぎも違法です。八州廻り(関東取締出役)と呼ばれる勘定奉行配下の広域警察に追われ、前後8年に渡り会津に亡命してました。逮捕は赤城山に戻って4年目の嘉永三年(1850)八月、すでに中風を患い寝たきり状態だったとか」

 

 しらたまオバケ 「同じ年の十月、蛮社の獄(→「天保遠山桜⑤」)以来逃亡していた洋学者・高野長英も捕まった。事件で伝馬町永牢となったのが、弘化元年(1844)六月、放火脱獄して地下潜行の身だったんだ。優れた学者なので世間に放っておかれず、故郷水沢(岩手県奥州市)に帰って老母に顔を見せたあとは各地を転々として、理解者たちから保護を受ける」

 

 あんみつぐすん 「宇和島では伊達宗城、薩摩では島津斉彬にも歓待され、洋学書を翻訳して進呈しています。大胆にも江戸に戻って硝酸で顔を焼いて面相を変え、町医者を開業してました。しかしあまりにも医術や翻訳が巧みだったので足がつき、青山の隠棲宅を捕り方に踏み込まれると、滅多打ちされて絶命。享年47です」

 

 しらたまオバケ 「遠山金四郎は嘉永五年(1852)三月、病気のため致仕を願い出る。まる7年間の南町奉行職だった。隠居後は入道して <帰雲> と号し、亡くなったのは安政二年(1855)二月、享年63。町奉行として幕政最高機関、評定所の閣議に列席していた遠山が、日米和親条約締結といった大きな歴史の転換を目の当たりにし、日本の将来をどう考えていたのか興味深いところだねぇ」

 

 あんみつゲラゲラ 「北・南あわせて10年間町奉行を務めた遠山の時代、天保の改革から開国前夜と、幕府政治は大わらわでした。そうした世情で、幕府首脳として常に江戸市民の側に立っていたというのは特筆ですね。遠山の金さん、と人気があった理由がわかる気がします。しらたま先生、今回も勉強になりました~」

 

 

 

 

 

 「天保遠山桜」 シリーズはこれで完結です。毎度長々のお読みをいただきありがとうございました。

 

 また新しいシリーズでの歴史トークにぜひぜひご期待くださいませ。次回はぜんざい教授ねこへびの予定です。

 

 

 それではごきげんよう龍

 

 

*** オバケ参考図書ニコ ***

 

・北島正元 「日本の歴史18 幕藩制の苦悶」

・小西四郎 「日本の歴史19 開国と攘夷」

・岡崎寛徳 「遠山金四郎」

・藤田 覚 「遠山金四郎の時代」

・緒方富雄編 「江戸時代の洋学者たち」

・丹野 顯 「江戸の名奉行」

・海音寺潮五郎 「悪人列伝 鳥居耀蔵」 「実説武侠伝」

・山田風太郎 「忍者黒白草紙」 「武蔵野水滸伝」