*3月17日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコ、今回は近現代史のしらたま教授オバケとの歴史トークで、テーマは天保の改革周辺。

 

 本日は、改革がもたらしたもの のおはなしです。

 

 

 

 

たこ焼き お茶 ピザ

 

 あんみつ真顔 「しらたま先生、天保十二年(1841)五月に始まる天保の改革の主眼は、絶対主義的にお上が社会を統制する強権政治でした。その手始めは教科書でいう株仲間解散命令。商品流通の独占機構たる <株仲間> の特権否定です」

 

 しらたまオバケ 「それぞれの業界団体は仲間・組合を結成し、毎年1万200両の冥加金を幕府に上納することで保護を受け利益を独占していた。現在でいうカルテルだね。あるいは経団連が与党に巨額献金して法人税軽減を求めてきたようなもんだ。老中水野忠邦はこれを廃止し、一般商人の自由売買を認めた」

 

 あんみつうーん 「目的としては、大都市への商品移入量を増やして物価を引き下げることですね。生活必需品の独占だけじゃなく、商品を仲買に通すことで中間搾取が生じ、物価高の原因になっていました。東京五輪や大阪万博、新型コロナ禍での持続化給付金事業でも中抜きが横行しましたから、人間の悪知恵は今昔変わりません」

 

 しらたまオバケ 「たしかに当時の株仲間には物価調整や統制機能はなく、市場独占のマイナス面ばかり目立った。しかし低物価政策をお上が無理強いすることは、社会のひずみを生む。職人の賃金や貸金の利子まで公定にしたため、業者の商売が不振になり、商品やサービスの質が落ちたんだ。現在でいうと、中小企業が守りの経営で設備投資をしなくなり、生産性低下を招くような」

 

 あんみつしょんぼり 「経済統制は農民にも及びます。農家はお米だけじゃなく、畑作で野菜や着物の原料を作り、それを都市部で売る副業を営んで生活の足しにしていました。いきおい農村にも貨幣経済が普及していき、幕府の財政基盤だった自給的小農経営を分解させます。水野政権はここにメスを入れました」

 

 しらたまオバケ 「教科書でいう <人返し令>。全国人口調査(約2600万人)と副業調査の結果、大都市への人口集中が顕著だった。江戸への流入を防止するため、独身者や無宿者の帰郷を促したのだが、農村で生活できないから江戸に来たんであって、帰れと言われても聞く耳持つわけがない」

 

 あんみつ真顔 「副業が規制され、憤懣募る農村では百姓一揆の件数が激増しました。都市打ちこわしを含めると、天保年間で年平均40件。その内容は重税抗議や役人汚職の告発だけじゃなく、零細百姓が名主に生活改善を求める、いわゆる人権運動の様相を見せます。これは洋学が農村にも浸透してきたからですね。フランス7月革命(1830)の事実は日本にも伝わっていました」

 

 しらたまオバケ 「天保十三年(1842)十月、近江国甲賀・野洲・栗太の300余村、4万人もの農民が史上空前の蜂起を行った。世に言う <近江大一揆>。原因は幕閣が派遣した検使による開発調査...実は隠し田の摘発に激昂したからだ。重税に苦しむ農民の命の綱である隠し田まで課税対象になっては、もはや生きていけない」

 

 あんみつねー 「野洲郡三上村庄屋・土川平兵衛を頭目とする農民は検使一行を襲撃し、狼狽した幕閣は検地中止を決定します。その代償として代表者100人以上は逮捕され拷問死。土川や庄屋11人は江戸に回送され、鳥居耀蔵の手で惨殺されました。彼らは <天保の義民> と呼ばれます」

 

 しらたまオバケ 「もともと改革のきっかけは、一揆打ちこわしの頻発での社会動揺。それが大塩平八郎の乱に及んで幕閣を恐怖させたからだ。民衆の抵抗は暮らしが苦しいからなのに、水野や鳥居はそれをモラル礼節の欠如と考えたんだね。それを是正するのは上からの弾圧と強化が手っ取り早い、との間違った正義感だ」

 

 あんみつもぐもぐ 「世論と同時に、幕閣内でも強圧的な改革手法に対する疑問、反発の声が上がってきました。つまり水野や鳥居が憎まれてきたんですね。諫めようとした水戸斉昭が水野に遠ざけられるに至り、反改革派が集まり始めます。まだ24歳の寺社奉行・阿部伊勢守正弘を中心に、老中・土井利位、若年寄・堀田摂津守正衡、北町奉行・遠山金四郎らです」

 

 しらたまオバケ 「閣内不一致にも関わらず水野が改革を強行できたのは、ひとえに将軍徳川家慶の信任あってこそだ。天保十四年(1843)二月、民衆抑圧に反対してきた遠山金四郎は大目付に役替え。事実上の閑職左遷だ。四月に水野は将軍のご機嫌とりと政権の示威のため、67年ぶりの日光社参を再興する。18万両の巨費を投じた大プロジェクトだ」

 

 あんみつぶー 「お参りというより徳川将軍が軍事編成を取った諸大名・旗本18万人を従えて日光街道をパレードし、幕府の勢威をアピールするイベントですね。窮乏の大名も、徴用される沿道の農民もハッキリ言って迷惑でしたが、家慶は大いに満足。水野は賞賜を受け、体制引き締めに成功したと自賛したのでした」

 

 しらたまオバケ 「ついで水野は印旛沼干拓工事に着手。常総に沃田を開き、沿岸の洪水を防ぐとともに運河として江戸への輸送ルートとする意義の大きい計画で、かつて田沼意次が天明五年(1785)に実施し失敗。政権の打撃となったいわくつきの工事だ」

 

 あんみつえー? 「このとき御普請役格を任されたのが、農村復興で数々功績を挙げていた、かの二宮金次郎(尊徳,1787~1856)でしたか。彼は周辺農村の救済とパックにすることを提言しますが採用されずじまい。果たして115万両もの御用金を徴収した工事は結局中止。印旛沼って江戸幕府にとって厄ネタでしたねぇ」

 

 しらたまオバケ 「検見川海面はあまりに難所で、巨大ザルのような怪獣が出たとウワサされたほどだ(笑)。印旛沼に放水路が成ったのは実に1969年(昭和44)のこと。工事自体は水野の失策とはいえないが、彼の内閣を倒壊させる原因はこのような専断にあった」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 全国規模で社会経済すべてに改革の大ナタをふるった水野忠邦政権の独走は閣内分裂を招き、遠山金四郎は北町奉行解任。しかしやがて倒壊のときを迎えます。

 

 次回、暗闘と灰燼 のおはなし。

 

 

 それではごきげんようオバケニコ