*1月14日エントリー の続きです。
R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは戦国大名芦名氏。
本日は、鶴ヶ城人情噺 です。
あんみつ 「先生、永禄九年(1566)、芦名氏との抗争に敗退した伊達輝宗は、和睦の証として当主芦名盛興に妹の彦を嫁がせました。父晴宗はこの膝を屈した講和に反対だったとか。それにしても伊達氏は稙宗・晴宗・輝宗と、足利歴代将軍、義稙・義晴・義輝からキレイに一字拝領を受けてますね」
ぜんざい 「輝宗は我が子に先祖の大膳大夫政宗の名を与えたが、江戸時代はまた忠宗・光宗・綱宗と徳川将軍から偏諱を賜っているから、ある意味事大主義なんだろう。陸奥守護職、奥羽の地では特別な家柄なんだとね。それがただの国衆である芦名に和を請うとはなんたる屈辱、という考え方だ」
あんみつ 「それでも父の反対を押し切ったんですから、輝宗の方針は独特ですね。当時の家中が晴宗の側近・中野宗時の専横下なのに憤っていたこともあるでしょうけど(4年後追放)。結果として芦名と伊達は同盟関係になり、天正二年(1574)四月、芦名止々斎(盛氏)は伊達実元の請いに応じて田村清顕、大内義綱ら近隣の小大名を攻撃、服属させました」
ぜんざい 「ところが同年六月、芦名盛興が鶴ヶ城中での酒宴の席で、激しく吐血して息絶えた。享年28。酒毒虚損というから、アル中の気があったところへ胃潰瘍を患っていたようだ。豪傑の父を持ったコンプレックスがあったのかも知れない。止々斎の男子は盛興ひとりなので、継嗣問題が発生する」
あんみつ 「盛興には彦とのあいだに女児お岩があり、家臣片平助右衛門の娘とのあいだには男児力丸がありました。生まれたのはほぼ同時だったとか。ふつうならこの子が跡取りになるところなのに、彦は強い性格だったようで、力丸を殺害しようとしたり、片平御前の不義を噂立てたりして妨害しました。コワ~...」
ぜんざい 「難渋した家臣は、大沼郡の向羽黒城に隠居していた止々斎に裁定を求めると、さすが事情を悟ったようだ。伊達との同盟の手前もあれば、乱世で幼い力丸を当主にする不安もある。当分自ら芦名氏を率いることとし、成人している縁者から跡取りを探すことにした。見込んだのは須賀川から人質に来ていた15歳の平四郎だった」
あんみつ 「二階堂盛義が帰順した7歳から、ずっと鶴ヶ城で育ったんですね。当時から美少年だったのがますます凛々しくなり、才気も渙発だったので、止々斎自ら烏帽子親となり盛隆の名を与えました。盛興も生前、ネンゴロに可愛がっていたようです(笑)。とはいえ、よその家の人質を跡取りにするとは意外」
ぜんざい 「いちおう、生母阿南が伊達晴宗の娘で、晴宗は芦名御前を母に持つので、盛隆は止々斎からみて再従甥(はとこおい)に当たる。かつての伊達稙宗姻戚ネットワークがモノを言ったわけだ(笑)。また、人質を重用したり器量を問う考え方も珍しくはない。徳川家康は今川義元から親類待遇を受けたし、立花道雪は高橋紹運の嫡男宗茂を強いてもらって後継者にしている」
あんみつ 「しかも、盛隆という若者はよほどハンサムだったんでしょうか。彦までがゾッコン惚れ込み、10歳下の盛隆と再婚したいと言い出しました。止々斎も伊達輝宗も、二階堂盛義も異存はないので婚儀となり、鶴ヶ城新当主・芦名盛隆が誕生します」
ぜんざい 「補佐役には止々斎の最側近、金上盛備(かながみ・もりはる)を充てた。彼は ‟会津執権” の異名で知られる功臣だ。天正六年(1578)三月、上杉謙信死後の後継争いで 《御館の乱》 が勃発すると、止々斎と金上は伊達輝宗とともに上杉景虎方として参戦、蒲原郡を掠め取って越後に所領を広げる」
あんみつ 「御館の乱は上杉景勝が勝利したというのに、なかなかしたたかですねぇ。止々斎はあまり強欲ではないというか、伊達と違い奥羽の覇者となる気までは感じません。芦名氏が存続して、会津を独立大名国として保有できればいいくらいの気宇と思われるのに、それなりに領土拡大してるんですから」
ぜんざい 「北条氏や毛利氏がそうだったように、ほとんどの戦国大名の意識はそんなもんだ。とはいえ家臣や豪族を従わせるためには恩賞としての領地が要る。自家存続には拡大政策を採らなければならないのが戦国乱世の本質だ。組織のドンはカネを惜しんではならないというヤクザの論理と同じさ」
あんみつ 「あぁ、主君への忠義は江戸時代に入ってからの朱子学の教え。滅私奉公なんてありえない話でした。あくまでギブ&テイクのドライな関係です。主君は家来のためなら理非なく便宜を図ってやる度量があってこそ、戦場では命がけで働いてくれるわけで。そんな子分を養うにはカネがかかるって、今般の派閥裏金事件でよぉくわかりましたし」
ぜんざい 「それは政治家でもヤクザでも実業家でも一緒。アメリカのギャングなんかでも、麻薬・売春・賭博のアガリがあってもまだ足りないから銀行強盗とかやるのさ。鉄砲玉は使い捨てなんかじゃなく、家族ともども一生面倒見てあげるもんだからね。戦国大名の行動論理とまさに軌を一にする」
あんみつ 「芦名止々斎にしても、白河結城(ゆうき)氏の小峰義親(不説斎,1541~1626)に娘を嫁がせていた縁で結城を傘下に容れると、常陸国と境を接したことで佐竹義重(1547~1612)との抗争に至りました。佐竹家老・和田昭為を調略したり、下野国の那須資胤と盟約するなど激しく争い、寺山城では敗退(1572)、大里城では快勝(1576)と北関東では一進一退の戦況です」
ぜんざい 「芦名・佐竹に挟まれた結城、田村、石川などの小大名が反服常ない立ち回りをしたからね。やがて和田昭為が結城不説斎を佐竹に内応させ、その功で帰参となる。その佐竹も芦名と組んだ北条氏の圧迫に苦しんで北上は出来なかった。畿内では織田信長による覇業が進んでいるさなか、北関東~南奥羽はいまだ群雄割拠の状態だ」
今回はここまでです。
芦名盛興の早世で、隠居かなわず戦場に立ち続けた芦名盛氏(止々斎)は二階堂・結城を服属させ、越後と下野の一部にも版図を広げました。その勢威は北条氏政、佐竹義重、伊達輝宗をも怖れさせました。
次回、芦名盛隆艱難噺 です。
それではごきげんよう。