R大学文学部の院生・あんみつ君ニコは、冬休み明けから史学会年度末総会の準備お手伝いでキャンパスに来ています。

 

 さて、ぜんざい教授ねこへびと今回はどんなテーマが飛び出すのでしょうか...(^◕.◕^)

 

 

 

 

スイーツ コーヒー 🧁

 

 あんみつラブ 「ぜんざい先生~、今年もよろしくお願いします! 年度末総会は4年ぶりだから、準備に手間取ってますねぇ。総会といっても懇親会だから、教授方もお酒楽しみにしてるだけですけど(笑)。あっ、ヤマザキの ‟雪苺娘(ゆきいちご)” 発見! 雪見だいふくのケーキ版って感じで大好きですよ~」

 

 ぜんざいねこへび 「ふふ、じゃあコーヒータイムにしようか。私も幹事を押し付けられるトシじゃないから気楽だよ。しらたま先生はなんだかんだ言って逃げたみたいだ(笑)。毎年とはいえ、お正月もあっという間だねぇ。後期の講義もあと少しだから、君も好きな分野の勉強が出来るだろ」

 

 あんみつねー 「はい。年末まで、しらたま先生と幕末の庄内藩を史料から検討してたんですけど、戊辰戦争での庄内の健闘に比べて、会津藩が終始防戦劣勢なのが意外でした。白虎隊の悲話などで有名なのは会津戦争だし、子どもまで駆り出すわ、非戦闘員は自決させるわで籠城戦まで頑強に抵抗したのはたしかですけど」

 

 ぜんざいねこへび 「会津藩は寛永二十年(1643)、三代将軍徳川家光の庶弟・保科正之が23万石で入部して以来、東北における親藩大名として重きを成した。会津若松は白河以北の要所だから、その以前も豊臣秀吉や徳川将軍の信任厚い著名な武将が封じられている。加藤嘉明44万石、関ヶ原合戦までは上杉景勝120万石、その前は蒲生(がもう)氏郷42万石というように」

 

 あんみつぶー 「若松と命名したのは蒲生氏郷。それまでは黒川といい、伊達政宗の領土だったんですよね。小田原征伐を終え秀吉が天下一統、その後の奥州仕置にあたり、天正十五年(1587)の惣無事令に反して侵攻したとの理由で政宗は会津領を召し上げられました」

 

 ぜんざいねこへび 「伊達政宗が会津を掌握したのは、天正十七年(1589)六月の磐梯山麓、<摺上原(すりあげはら)の合戦> において芦名氏(あしなうじ,蘆名とも)に勝利したからだ。戦国時代、東北きっての大々名であった芦名氏を決戦で倒し、秀吉にはにらまれたが、政宗が史上の有名武将となり、仙台62万石藩祖に成り得たマイルストーンの戦いだったと言えるだろう」

 

 あんみつイヒ 「う~ん、でも先生、その芦名氏というのが逆にあまり有名じゃなく、‟政宗の大敵だった会津の大々名” のイメージしかないんですよねぇ。まるで織田信長が今川義元を桶狭間山で斃したように、若き奔馬のジャンピングボードみたいな扱いで。今川義元自身にしたって、辛苦を経て駿遠三の太守となった一代の英傑でしたが(→「今川盛衰録④」)」

 

 ぜんざいねこへび 「そうだねぇ。芦名氏にも畏敬されるに足る深く長い歴史がある。平安時代末期、三浦半島の豪族三浦氏の一族に佐原義連(よしつら)という武勇の士があり、源 頼朝が奥州平泉の藤原泰衡を亡滅させた(1189)際の恩賞で、会津四郡の地を給される。義連の子・盛連(もりつら)は三浦半島の西岸、芦名に住んだので芦名ノ盛連と呼ばれていた」

 

 あんみつもぐもぐ 「芦名って三浦半島の地名でしたか。そういえば毛利元就の祖先も、安芸から遠く相模国愛甲郡毛利庄が本貫地でしたね。でも鎌倉御家人って新恩給与の地をもらっても、家来から地頭代(じとうだい)という代官を派遣して管理させ、自らは鎌倉に留まるものでした」

 

 ぜんざいねこへび 「うん。鎌倉幕府が倒れると、会津黒川郷を分配されていた盛連の子・光盛の子孫にあたる芦名直盛が永徳二年(1382)に会津に移住し、小田垣山を本拠として鶴ヶ城と名付け、現地の八角(やすみ)社を小館山(こだてやま)稲荷に改築して鎮護神・亀の宮とした。鶴に亀だ」

 

 あんみつゲラゲラ 「縁起を担いだんですね。のちに蒲生氏郷が黒川を若松と改めたのは、やはりおめでたい鶴亀の縁語でしたか。別に細長い松が生えてたわけじゃないんですから、地名の由来ってほんとに謎。つけた人に聞いてくれって感じですねぇ(笑)」

 

 ぜんざいねこへび 「足利幕府の下では、芦名氏は <扶持衆> を務めた。京都から遠い東日本は <鎌倉府> という出先機関が管轄していたんだが、やがて将軍家と鎌倉府は反目するようになったんで、奥羽の有力武家は将軍家と直接主従関係を結んだんだ。これを ‟京都御扶持之輩” という。芦名のほか、伊達氏や南部氏、結城氏や相馬氏もそうだ」

 

 あんみつにやり 「室町時代において、京都将軍と鎌倉府とは永享の乱(1438)など直接の争乱が起きてますからね、奥羽から関東を牽制してくれる勢力は重宝です。享徳の乱(1455~1483)で関東における足利幕府の支配力が消滅すると、芦名氏は会津を固く守って参戦することはありませんでした。京都では応仁の乱(1467~1477)が起こり、世は戦国時代に入ります」

 

 ぜんざいねこへび 「先駆けて奥羽の覇権を目指したのは伊達稙宗(1488~1565)。奥州探題大崎氏の支配を脱して陸奥守護職の補任を受けると、成人した11男6女を政略にフル活用して奥羽全体に姻戚ネットワークを張る。自身の妻は芦名盛高(1448~1518)の娘を娶り、生まれた娘は芦名盛氏と結婚させた。いとこ婚だね。この芦名盛氏が戦国大名・芦名氏を大飛躍させていく」

 

 

 

 

 

 今回からのテーマは、戦国時代奥羽の雄・芦名氏です。

 いかにして会津の名門となり、衰退、亡滅の道をたどったかを見てきます。

 

 

 それではごきげんようねこへびニコ