*12月10日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコ、今回は近現代史のしらたま教授オバケとの歴史トークで、テーマは幕末の庄内藩。

 

 本日がシリーズ最終回、庄内藩始末 のおはなしです。

 

 

 

 

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 あんみつ真顔 「しらたま先生、九月八日に改元が成され、慶応四年(1868)は明治元年になりました。仙台、米沢に続いて九月二十三日、会津藩降伏。これを受けて二十五日に庄内藩も停戦します。奥羽越列藩同盟の戊辰戦争は終結しました」

 

 しらたまオバケ 「幕臣の抗戦は、なおも榎本武揚の艦隊が箱館五稜郭に向かったことで翌年五月まで続く。制海権のない列藩同盟は榎本艦隊の来援に期待していたのだが、品川沖からやっと仙台に寄港したのは八月。時既に遅かった」

 

 あんみつイヒ 「しかも台風の時季だったから艦隊は離散し、咸臨丸は破船。停泊していた清水湊で乗員が官軍に皆殺しにされました。放置されていた彼らの遺体を侠客・清水次郎長が手厚く葬ったのはこのときですね。のちに静岡藩権大参事になった山岡鉄太郎が厚く感謝したとか」

 

 しらたまオバケ 「榎本は仙台で玉虫左太夫らと面会するも、すでに藩主・伊達慶邦が降伏の意志固しとあきらめ、持ち腐れ状態だった星 恂太郎の洋式部隊 《額兵隊》 を収容して蝦夷へ去る。その際藩に要望した物資は米1000俵、酒100石から沢庵、味噌、油、砂糖、炭薪、卵、野菜、魚介、茶に及ぶ数百樽というおびただしい品目と分量だ」

 

 あんみつねー 「これを即用意して与えたんですから、ハッキリ言って仙台藩は厄介払いしたかったようですね。もし来航がもっと早かったら戦局は変わっていたことでしょう。蝦夷には板倉勝静や小笠原明山の元老中から桑名候・松平定敬も同行しました。大鳥圭介や土方歳三の新撰組も併せ約4000人。庄内からはいません」

 

 しらたまオバケ 「降伏後、薩長官軍から苛酷な戦後処理が成される。まず叛逆首謀者のリストアップを命じられた。これに対し庄内は 『上下一体になりて事を謀りたれば特に首謀と命名すべき者なし』 と答申するも却下されたので、最高指揮官である松平権十郎が藩の責任を一身に負うことにした」

 

 あんみつしょんぼり 「責任を取るとは自刃です。菅(すげ)実秀は 『自重して恥辱を雪ぐためにも貴殿は死すべきにあらず』 と必死に押しとどめました。代わりに長岡藩の新潟港で戦死していた家老の石原倉右衛門に首謀者になってもらおうと提案します。死人に口なし、すんごい詭弁ではありますが」

 

 しらたまオバケ 「降伏したとはいえ無敗のまま停戦した庄内藩を怖れた官軍は、なんとこのヘリクツを受け入れた。十二月、藩主酒井忠篤(ただずみ)を東京で隠居謹慎、13歳の弟忠禄(ただみち、のち忠宝ただみち)が相続し、会津若松12万石に移封処分と決まる」

 

 あんみつぐすん 「藩士3000人が長年住み慣れた庄内を追われ、戦火で廃墟となった会津への移封なんてショックでしょうね。しかも農民一揆が発生し、治安は最悪です。翌年二月、菅と酒井吉之丞は鶴岡から上京し、仇敵の薩摩藩に減刑嘆願を繰り返しました」

 

 しらたまオバケ 「頼ったのは秋田と越後口で戦った黒田了介や大山格之助。長岡の苦戦で西郷吉之助(隆盛)が柏崎に来援していたことがあって、庄内の健闘に感心して寛大な処置をするよう命じていたと耳にしたからだ。しかし長州から異論が出て、会津ではなく磐城平4万石への移封となる」

 

 あんみつ笑い泣き 「菅の交渉は困難を極めたんですねぇ。長州からは 『朝に乱賊 夕に痴人(アホ)』 と嘲笑されたと言います。ここで手を差し伸べたのがまたしても酒田の豪商・本間壮吉(光美こうび)。領内のすべての商家と合わせ、なんと70万両もの献金を明治新政府に持ちかけたことで庄内藩保全が急転決定します。地獄の沙汰もカネしだい、とはまさにこのこと」

 

 

松平権十郎(左) 菅 実秀(右)

 

 

 しらたまオバケ 「明治二年(1869)七月、酒井忠宝は庄内藩知事として復帰した。西郷が本間家の忠心に感じ入り、同時にカネに潔癖な人でもあったから、財政難の新政府ではあるが献金は30万両を受け取り、あとは返したという。明治四年(1871)の廃藩置県で庄内藩は酒田県となった」

 

 あんみつにやり 「本 県知事たる大参事には松平権十郎、副知事格の権大参事には菅 実秀が任命されたので、庄内の人々は 『恐悦々々百万石より之愉快』 と喜んだとか。権十郎と菅は旧庄内藩士3000人の生活のため、大規模な農地開発を計画します」

 

 しらたまオバケ 「鶴岡の東、月山山麓の後田山(うしろだやま)の官有林百町歩の払い下げを受けると、彼らを開拓士として二ヵ月にして原野を桑や茶の畑に変えた。《松ヶ岡開墾事業》 という。もっとも万事順調ではなく、敗戦藩ゆえの統治困難から天狗騒動やワッパ騒動と呼ばれる農民強訴に苦慮しながらの仕事だ」

 

 あんみつもぐもぐ 「領民たちが貢租に過納金があると払い戻しを要求した一揆ですね。権十郎が年貢米を売って租税を納めた余剰金を開墾費用に使ってるんじゃないか、と政府から疑惑の目が向けられました。司法省判事、児島惟謙(宇和島)の判決は、過納金は認定されましたが汚職はないとし、農民への弁済を命じるとの被告原告双方を立てた異例の民主裁定となっています」

 

 しらたまオバケ 「明治七年(1864)十二月に酒田県令が薩摩の三島通庸(みちつね)に交代するとふたりは退官。権十郎は引き続き松ヶ岡開墾に尽力し続け、大正十三年(1924)九月、77歳で亡くなる。菅は実業界に転じ、のち荘内銀行となる第六十七国立銀行の頭取を務めた」

 

 あんみつぶー 「本 明治八年(1875)には薩摩に旅して、下野していた西郷隆盛と菅が会見していますね。記録はないので、何を話したのか興味深いです。戊辰戦争後の寛大な処分に感謝を述べたのか薩摩と庄内の交流が深まり、のちの西南戦争には庄内からの留学生ふたり(伴 兼之,榊原政治)が従軍していたほど」

 

 しらたまオバケ 「菅はまた、山居倉庫という16000俵を貯蔵できる倉庫群を酒田に建設し、日米商会所を通じた取引きで庄内米を日本一の市場価格に上げている。同時に旧主の酒井忠篤、忠宝兄弟の後見人となり、明治三十六年(1903)二月、74歳で亡くなるまで鶴岡の自宅に若者を招いては昔ばなしを語り聞かせたという」

 

 あんみつ真顔 「もうひとりの庄内の名将、酒井吉之丞は開拓使長官・黒田清隆の委託を受けて清国に旅行。これは来るべき日本軍の大陸侵攻に向けての現地調査と言われています。帰国後の明治九年(1976)二月、結核が悪化し惜しくも33歳の若さで亡くなりました」

 

 しらたまオバケ 「庄内の財政を支えた本間壮吉は明治二十一年(1888)、本立(ほんりつ)銀行(出羽銀行→現:荘内銀行)を設立して頭取となり、明治三十年(1897)には本間農場を建設して農業近代化を進めた。保有する田地は3000町歩を越え、戦後の農地改革まで本間家が日本一の地主に君臨している。壮吉の逝去は大正十二年十二月、享年78」

 

 あんみつほっこり 「最初に使った史料の 『東役飛翰』 を遺した犬塚甚之助は明治以後、福島県郡山や愛媛県松山、愛知県岡崎で中学、師範学校の教師を歴任しています。悲惨な戊辰戦争をくぐり抜けて、庄内の人々はそれぞれの人生を送ったんですね、しらたま先生、今回も本当に勉強になりました~」

 

 

 

 

 

 これで 「庄内藩致道」 シリーズは完結です。

 長々のお読みをいただきありがとうございました。

 

 また年明けからの新シリーズにもぜひぜひご期待くださいませ。

 

 

 それではごきげんよううさぎクッキー

 

 

*** オバケ参考図書ニコ ***

 

・井上 清 「日本の歴史20 明治維新」

・佐々木 克 「戊辰戦争 敗者の明治維新」

・星 亮一 「奥羽越列藩同盟 東日本政府樹立の夢」

・海音寺潮五郎 「江戸開城」 「日本名城伝」

「幕末動乱の男たち」 から 『山岡鉄舟』 『清河八郎』

・鈴木 亨編 「新選組事典」

・仲泉 剛 『幕末維新期における庄内藩士の江戸体験

-「東役飛翰」 の分析を通じて-』(立正史学第126号)