*11月19日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコ、今回は近現代史のしらたま教授オバケとの歴史トークで、テーマは幕末の庄内藩。

 

 本日は、庄内藩燃ゆ のおはなしです。

 

 

 

 

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 あんみつアセアセ 「しらたま先生、慶応四年(1868)五月三日、長岡藩の河井継之助が参加表明したことにより北越6藩も合流、《奥羽越列藩同盟》 が結成されました。六月には上野戦争から逃れてきた輪王寺宮公現法親王が会津に入り盟主として戴きます。もはや戦争は不可避。ここに至るまで庄内藩はどうしていたんでしょう」

 

 しらたまオバケ 「慶応四年の正月に江戸警備から本国へ撤収すると、庄内では酒田の豪商・本間壮吉が10万両の資金を提供し、ライフル銃やガトリング砲など最新兵器を購入して軍備の近代化を急いでいた。供給したのはオランダの武器商人・ジョン&エドワードのスネル兄弟だ」

 

 あんみつにやり 「本 ええと、スネル兄弟は列藩同盟の軍事顧問として河井や会津の梶原平馬、米沢の甘粕継成からも頼られ、アメリカ南北戦争で使われた兵器を輸入していたんですね。ジョンは髷に羽織姿で平松武兵衛を名乗り、お葉という日本人女性と結婚していました。まだ20代と若く、たいへんなハンサムだったとか」

 

 

ジョン(左)、エドワード(右)のスネル兄弟

 

 

 しらたまオバケ 「弟は自ら軍艦で武器弾薬を満載し、新潟の勝楽寺に居を構えると、洋風にした座敷に列藩の指導者を招いてはステーキやフィッシュフライ、オムレツ、ワイン、ビール、桃やスイカの果物でもてなしたという。会食を ‟諸藩面々狂酔” で愉しんだというから、来たる戦争の脅威をこのときは忘れられたのだろう」

 

 あんみつしょんぼり 「庄内候・酒井忠篤(ただずみ)はまだ16歳だったので、藩政は57歳の父忠発(ただあき)が主導していました。庄内とて藩論一統ではなく、恭順を主張する酒井右京や松平舎人の一派があり、彼らは忠発の押し込め(強制隠居)を画策したとして処断されています(丁卯の獄,慶応三年九月)」

 

 しらたまオバケ 「松平権十郎(ごんじゅうろう)は軍事総帥を任され、藩士の調練に当たった。片腕の菅(すげ)実秀は列藩の調整役に奔走することになるが、実は庄内入りが遅れていた。慶応三年九月の江戸は向島、小梅猟場でのつまらないトラブルのせいでね。雁撃ち遊びに興じていたとき、墨田のヤクザに取り囲まれ、ケンカ騒ぎを起こしてしまったんだ」

 

 あんみつガーン 「当時の江戸外れも物騒ですねぇ。本 多勢に無勢で滅多打ちのうえ囚われの身になった菅は、藩に迷惑がかかることを怖れ舌を噛もうとしましたけど、先に前歯を折られてしまったんですか。痛そう~。舌を噛んで死ぬって不可能ではないにせよ、すさまじい苦行だと聞きます」

 

 しらたまオバケ 「菅の従者が藩邸の松平権十郎に注進したおかげで救出され、藩候忠篤も不問に付したので助かった。恥じ入った菅は動乱の京都に行き、薩長首謀者の闇討ちを志願したんだが、西郷や大久保一蔵の身辺を狙っているうち鳥羽伏見の戦いがあり、戦線が関東に移行したので帰郷する。菅の人生は 『臥牛先生行状』 という覚書きにまとめられているので興味深いよ」

 

 あんみつ真顔 「菅は庄内藩としての今後の方針を藩候に諮問され、‟大政返上の今、佐幕は難儀” としながらも、‟勝算あるまじきなりとて、悔ゆるともまた及ぶべからず” と決戦の覚悟を答申しました。松平権十郎や酒井吉之丞といった門閥家老も同調します」

 

 しらたまオバケ 「とはいえ、実は薩長官軍にとって庄内藩を朝敵として武力侵攻する口実が見当たらなかった。寄せてきたから抗戦したまでと言われたら、戦争責任は薩長のものになる。そこで、庄内藩が江戸から連れ帰った新徴組が不穏分子であると難癖をつけた。彼らに与えた賄料の村山郡柴橋は旧幕領だから、新政府が接収すべき地の横領である、とまぁ無理筋ないいがかりだね」

 

 あんみつぼけー 「慶応四年(1868)四月、奥羽鎮撫総督府は薩摩の大山格之助(綱良)を参謀として天童藩や秋田、津軽に庄内討ち入りを命じました。まだ列藩同盟は成っていないときです。薩長150人に500人ほどの諸藩兵が天童城に入り、討庄作戦が実施されました。とうとう庄内藩にも戊辰戦争の戦火です」

 

 しらたまオバケ 「四月二十三日夜、官軍は最上川を舟で下り、清川口に進撃した。あの清河八郎の生地だ。庄内軍総司令官の松平権十郎は内偵を放ってその動きを掴んでいたから、自ら最上川筋に藩士200人とカノン砲、ガトリング砲を配備。農民にも参戦を求める。応じたのは左沢(あてらざわ)の侠客、柴田小文治だ」

 

 あんみつもぐもぐ 「本 左沢の小文治...村山郡大槙出身で関東に逃げて博徒となり、あの ‟海道一の大親分” 清水次郎長の身内に入って二十八人衆のひとりにまで成り上がったヤクザ者ですね。次郎長一家といえば森の石松とか吉良の仁吉、大政(原田政五郎)、小政(吉川冬吉)らも有名です。慶応二年(1866)四月、黒駒の勝蔵配下とカチコミした荒神山の決斗にも加わってましたか」

 

 しらたまオバケ 「帰郷したのち、左沢で最上川の船頭や人足を取り仕切って土地の親分になった。山〇組が神戸港でステベを口入れしたことに始まったのと一緒だ(笑)。小文治は大柄でケンカがめっぽう強かったが、賭場を開かず弱い者や女性に親切だったので子分から慕われ、シマの治安はみるみる良くなったという」

 

 あんみつおーっ! 「おりから、柴橋に先遣してきた官軍が乱暴狼藉を働いたことに住民が憤激。小文治に従った200人の農民人足が 《最上隊》 を名乗って権十郎の元に集まりました。戦闘は腹巻山から砲撃してくる薩長軍に足止めされるも、カノン砲の猛射で挽回。夜陰に乗じてカチ込んだ最上隊が官軍を敗走させました」

 

 しらたまオバケ 「勝利の報に、庄内鶴ヶ岡城には会津藩の使者が飛んできて会庄同盟が成立。菅が答礼に赴いた会津では藩候松平容保に歓待され、ちょうど訪れていた仙台藩参謀・玉虫左太夫ら列藩の使者とも面会、前回言ったような列藩同盟構想に至る。諸藩を勇気づけたのはまさに清川口で見せた庄内の強さだった」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 ついに庄内藩領でも始まった戊辰戦争の戦火。緒戦に快勝した余波は奥羽列藩を奮い立たせ、悲惨な戦いに導いていきました。

 

 次回、東北戦線崩壊 のおはなし。

 

 

 それではごきげんようオバケニコ