*11月12日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコ、今回は近現代史のしらたま教授オバケとの歴史トークで、テーマは幕末の庄内藩。

 

 本日は、奥羽越列藩同盟 のおはなしです。

 

 

 

 

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 あんみつアセアセ 「しらたま先生、慶応四年(1868)四月十一日に江戸城が明け渡し。徳川慶喜は水戸に立ち退きましたが、水戸では天狗党を見捨てた慶喜への反感が強く、居心地の悪い思いをしていました。かつて無残に処刑した武田耕雲斎の孫・金次郎が報復のため乗り込むと息巻いていたので身の危険すらあります」

 

 しらたまオバケ 「慶喜を案じた勝安房守義邦...以後は勝海舟と言うよ。彼は静寛院宮(徳川家茂夫人・和宮親子内親王)を通じて大総督府の西郷吉之助や海江田武次に江戸帰還を嘆願する。閏四月に田安亀之助の徳川宗家相続と駿河70万石の知行が決定し、七月に慶喜は謹慎名目で駿府宝台院に入った」

 

 あんみつ笑い泣き 「慶喜は恭順を説いた勝には必ずしも信頼を置いてなかったようですが、勝の慶喜、徳川に対する忠節はホンモノですね。思いやりというのか、戦争を回避して徳川の面目を保ったまま政権からソフトランディングさせてあげたいという。幕臣はそんな勝を軟弱、戦わず幕府を潰した奸物、と嘲ったわけですが」

 

 しらたまオバケ 「慶喜を水戸から戻してほしいとの勝の要望に不信感を持ったのは官軍も同じ。西郷や海江田が勝にいいように操られてるんじゃないか、とね。長州の大村益次郎、土佐の板垣退助、佐賀の江藤新平の本音は大総督府をリードする薩摩への反感でもあった。さながら第二次大戦終結を目前にした米ソのような、今後の各藩の主導権争いだ」

 

 あんみつしょんぼり 「徳川が駿河70万石というのはずいぶん苛酷に思えますけど、旧幕臣の江戸脱走が続出し、彰義隊が反抗の色を見せると五月十五日に上野戦争が勃発。これが一日で鎮圧され、やっと江戸には平穏が訪れました。そのころ、不穏な気配は奥羽をも覆います。こうした情勢では神輿になりかねない徳川に対し厳しくならざるを得ません。潰されないだけマシだったのかも」

 

 しらたまオバケ 「官軍は左大臣・九条道孝を総督とする奥羽鎮撫総督府を設け、朝敵会津藩の討伐準備を進めていた。かつて京都政界で暗闘を展開した一会桑のうち、慶喜と桑名藩はすでに降伏。京都守護職の会津藩松平容保は憎しみを一身に受けていたんだ。東北の雄・仙台藩62万石伊達家が会津出兵命令を受ける」

 

 あんみつぼけー 「戦国の英雄伊達政宗を祖とする仙台は、薩摩長州、加賀前田100万石に匹敵する大藩なのに、藩内を日和見主義が支配し、とうとう幕末は物の数に入れませんでした。政宗公が幕末にいたら、と思うくらい(笑)。英主・伊達吉村以外の歴代藩主が軒並み短命で、傑出した名君が出なかった不運もありますけど」

 

 しらたまオバケ 「それでも会津を朝敵扱いするのに反対する藩論はあった。慶喜が退隠した今、追討する必要はないし、禁門の変で御所を砲撃した長州が赦免されてるのに不公平じゃないか、という道理だ。そこで登場したのが玉虫左太夫46歳。かつて条約批准のための訪米団に加わった洋学者で、藩隠密として京都情勢を仙台に届けていた俊英だ。彼が列藩の取りまとめを任される」

 

 あんみつおーっ! 「九条道家が松島に航行してきたのは三月十八日。すぐ仙台藩重臣が召され、早く会津を征伐せよとの激しい叱責を受けました。高圧的に出たのは参謀の長州藩士・世良修蔵。傍若無人な言動に酔態、土地の美女を漁る世良は仙台藩士の憎悪と軽蔑を買い、やがて惨殺されることになります」

 

 しらたまオバケ 「四月に入ると、旧幕府歩兵奉行・大鳥圭介がフランス式陸軍 《伝習隊》 を率いて下総国市川に集結。新撰組も合流したが、流山で近藤 勇が陣屋を包囲されて投降、のち斬首される。土方歳三は大鳥とともに小山・宇都宮と転戦し、ここに戊辰戦争の火ぶたが切られた」

 

 あんみつしょんぼり 「この情勢に、仙台藩は会津出兵を決定。藩公伊達慶邦自ら白石に赴きます。もっとも戦闘する気はないので、国境の関宿で談判となりました。ほんと優柔不断(笑)。出兵してきただけでも不審なのに、降伏の条件が藩主容保と家老の首、領土削減という苛酷なものだったのに会津藩は激怒です」

 

 しらたまオバケ 「会津藩論をリードし、終始表にあったのは梶原平馬。ドラマでは西郷頼母が有名だけど、じっさいには梶原だ。彼は降伏条件の拒否を通告すると、日光口防衛のため山川大蔵を派遣。また庄内藩と交渉を進める。松平権十郎は会庄同盟を提言、すでに酒田の豪商、本間壮吉の軍費支援を取り付けていた」

 

 あんみつウシシ 「本間家が財政をバックアップしてくれるって、会津にも頼もしい話ですね。権十郎は奥羽同盟締結と江戸への進軍を豪語し、反転攻勢の構想を梶原に提示しました。翌閏四月、白石城に奥羽25藩の家老が集結して列藩同盟が成立。米沢藩は藩公上杉斉憲自ら出席してくる乗り気です」

 

 しらたまオバケ 「列藩のほとんどは主戦派ではなく、この会盟を薩長への威迫として戦争回避、会津への寛大な処置を求めるつもりだったんだが、梶原や権十郎、玉虫左太夫はそうはならないだろうと覚悟していたようだ。案の定、列藩の嘆願を受けた九条総督は仰天し、世良修蔵は 『奥羽皆敵、逆撃の大策』 と報告したので手切れとなる。世良の暗殺はその直後だ」

 

 あんみつ真顔 「玉虫左太夫は、薩長の官軍は朝廷の威を借りているに過ぎず、その行いは横暴非礼、徳川を追い落として自分たちが権勢を握りたいだけの同床異夢と考えていたんですね。玉虫はアメリカで共和政治に触れ、大きな感銘を受けていましたから、日本も将来的にそうなるべきと思ったんでしょうか」

 

 しらたまオバケ 「玉虫が太政官に提出した建白書には、『人心ヲ和シ上下一致ニセン』 に始まり、言論の自由から圧政の禁止、蒸気機関、欧米技術産業の導入まで言及がある。結果はそうならなかったが、明治政府の新しい時代に徒花的抵抗をした保守固陋な旧幕府支持者、という列藩同盟の評価は見直されるべきだろう」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 奥羽列藩同盟の成立は薩長を刺激し、江戸から退避した旧幕臣の武力蜂起を呼び水に、ついに戦火が奥羽の地に広がります。

 

 次回、庄内藩燃ゆ のおはなし。

 

 

 それではごきげんようオバケニコ