本日は、みつまめ忘れじのNBA名選手を回顧する後ろ向き企画、「みつまめNBAスーパースター列伝バスケ」。

 

 第118回は、ロン・ハーパー です。

 

 

 1964年オハイオ州デイトン出身。吃音からイジメを受けたものの、バスケットの才で蹴散らす幼少期を過ごします。。

 マイアミ大(フロリダでなくオハイオ州のマイアミ)に進学したころには6ft6in(198cm)に成長し、4年プレーしてオールアメリカンチームに選出される活躍でした。

 

 1986年NBAドラフト、1巡目8位でクリーヴランド・キャバリアーズが指名。ルーキーながらチームのエースを任され、シューティングガードとしてデビュー戦で25得点を挙げると、その年平均22.9得点をマークしました。

 

 チームは弱かったものの、ブラッド・ドアティーやマーク・プライスが入団してくると強化されていき、前途は揚々。

 しかし4年目、ナイトクラブでドラッグの売買をしているとのウワサがチームの耳に入るとシーズン途中でトレード放出。キャブスが気に入っていたハーパーは事実無根を訴え、フロントに薬物検査を求めましたが覆りませんでした。

 

 移籍先のクリッパーズはドアマット。しかも移籍早々試合中に右ヒザ前十字靭帯を断裂してしまい、かつてのジャンプ力は失われてしまいました。

 

 「オレは服役中なんだ」 とクリッパーズでの日々を自虐しファンを炎上させながらも、リハビリを経て復帰した1992年にチームをプレーオフに導くなど結果を示すと、FAになった1995年にシカゴ・ブルズから誘いを受けました。

 

 「懲役が終わったぜ」 とまたしても余計な言葉を発しつつも、新天地に発奮。当時はマイケル・ジョーダンが引退して野球に挑戦していましたが、

 「MJは復帰すると思ったよ。だって毎日練習に顔を出してたんだから。だからオレは得点じゃなく、ディフェンスとパスワークに専念しようと決めた」

 

 やがて予想通りマイケル・ジョーダンがカムバックしてくると、ハーパーはポイントガードに転向。しかもフィル・ジャクソンHCのトライアングルオフェンス陣形に順応して、アシストを挙げるわけでもない独特なスタイルを確立しました。主に相手の得点源にマンツーマンでつく ‟エースキラー” になったのです。

 

 

脇役に回ったブルズとレイカーズでV5

 

 

 ジョーダンとスコッティ・ピッペンとは信頼関係を築き、ゲームの日はいつも一緒に朝食を摂ってワークアウトしました。おかげでハーパーの技術もますます磨かれていきます。ジョーダンいわく、「この3人はブレックファスト・クラブなんだ。ハーパーがチームメイトに加わったのは最高の幸運だよ」

 

 1995-1996シーズンはシーズン記録(当時)の72勝10敗でNBA優勝。その後3連覇を達成しました。ハーパーの個人成績は平均6.9得点 2.0アシスト。それでも3年間、シーズン通してスターターで出場し続けたのです。

 

 ジョーダンもピッペンもブルズを去った1999年、フィル・ジャクソンがロサンゼルス・レイカーズのヘッドコーチに就任すると、ハーパーも誘われレイカーズに移籍。シャキール・オニール、コービー・ブライアントのサポートでさらに2つのチャンピオンリングを獲得し、2001年シーズンを最後に37歳で15年間のキャリアを終えました。

 

 「シカゴでは ‟仲間” だった。レイカーズでも優勝はしたけど楽しくはなかったな。他のメンバーも同じだと思うよ」

とレイカーズでの日々には辛辣なハーパー。

 

 一方でかつて後ろ足で砂かけたクリッパーズについては、

 「オレにエースを任せて頼りにしてくれたんだから感謝してる。出来ればクリッパーズのOBとしてファンに受け入れられたいね」

 

 引退後はデトロイト・ピストンズでディフェンシヴコーチを数年務めたくらいで悠々自適。自身の幼少期に経験から、子どものための吃音克服プログラムに出資しています。ふたりの息子もバスケットの道に進み、長男ロン・ジュニアは昨年トロント・ラプターズでNBAデビューを果たしました。