*10月22日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコ、今回は近現代史のしらたま教授オバケとの歴史トークで、テーマは幕末の庄内藩です。

 

 本日は、庄内藩 江戸警備を命じらる のおはなし。

 

 

 

 

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 あんみつ真顔 「しらたま先生、文久三年(1863)四月十五日...清河八郎が幕府に暗殺された二日後に、庄内藩が新徴組の支配を委任されます。組の浪士のあいだで信任篤かったのは山岡鉄舟と高橋泥舟ですけど、清河と親交が深かったため外されました」

 

 しらたまオバケ 「庄内藩が江戸にあったのは、前年八月に島津久光の行列が江戸から帰国する際に起こしたイギリス人殺傷、いわゆる <生麦事件> の賠償を巡り、イギリス艦隊が神奈川に来航したからだ。幕府は庄内藩など5藩に江戸市中警備を命じたので、ちょうど四月九日に着任したところだった」

 

 あんみつえー? 「幕府は老中・小笠原壱岐守長行(ながみち)の主張で10万ポンドの賠償金を支払うことでイギリスと妥結しました。当の薩摩藩は七月にイギリス艦隊に攻め寄せられ、鹿児島城下が壊滅。排外派は現実を見せられることになります(→関連記事 「大久保利通⑥」)」

 

 しらたまオバケ 「江戸の警備には、清河の集めた新徴組も利用することにした。言ったように信望は山岡や高橋にあったのだが、先に清河が公家に提出した建白書には二人の名もあったから、反逆する恐れありと思われたんだろう。彼らは謹慎、監視下に置かれた」

 

 あんみつウインク 「山岡と高橋は勝 海舟とともに <幕臣の三舟> と称される偉人です。清河と同調したのは、素行の良くない浪士集団を暴発させないためだったのに、幕府に疑われるなんて気の毒な話ですねぇ。のちにどちらも最後の将軍徳川慶喜のために奔走します。幕末でも興味深い人物ですよね」

 

 しらたまオバケ 「山岡鉄太郎高歩(たかゆき,1836~1888)は600石の旗本小野家出身。父は飛騨高山の代官だからわりに豊かな家だ。だが父母を早く亡くしたので、幼い弟妹たちの世話をひたすらしたという。それこそ貰い乳からおしめ交換までだ。身長190センチ、110キロという巨漢でも知られる」

 

 あんみつにやり 「本 千葉周作の玄武館で稽古していたときは ‟鬼鉄” の異名を取ったとか。20歳のとき、旗本山岡静山に師事。人格高邁で槍の達人だった静山は、鉄太郎をいたく気に入りましたが27歳の若さで病死してしまいました。妹と結婚し、鉄太郎に山岡家を継いでほしいと懇願したのが弟の高橋泥舟です」

 

 しらたまオバケ 「泥舟こと高橋謙三郎政晃(まさあき,1835~1903)は母方の高橋家の養子になっていた。小野家の方が山岡家より家格が上なのに鉄太郎が申し出を受けたのは、高橋の人格を尊敬していたからだ。彼もまた槍の達人、伊勢守を任官しのちに将軍慶喜の護衛になるや、誰ひとり討手を寄せ付けなかった」

 

 あんみつほっこり 「人望があったのに新徴組から遠ざけられたふたりの赦免は半年後の十一月。江戸城の本丸で火災があったので、騒擾を防ぐべく切腹覚悟で謹慎を破って駆け付けたのを、幕閣が感心したことからでした。人間性に関わらず、人生何が禍になり福になるかわかりませんねぇ」

 

 しらたまオバケ 「一方、新徴組を預かった庄内藩では、中老の松平権十郎親懐(ちかひろ)が御用掛を任された。当時26歳の彼はたいへんなハンサムだったらしく、江戸っ子のあいだで大人気。‟江戸の団十郎 庄内の権十郎” と並んで称され、錦絵が摺られると飛ぶように売れたという」

 

 あんみつウインク 「本 権十郎を支えたのが菅(すげ)秀三郎実秀。彼は鶴岡の郡奉行から江戸留守居添役に抜擢されたんですね。権十郎より8歳上。エリートながら剛毅で一本気の権十郎に対し、菅はたたき上げで清濁併せのむ老獪な知恵袋という感じの、対照的な良いコンビです」

 

 しらたまオバケ 「庄内藩が江戸に着任した文久三年(1863)は江戸より京都政情が不穏だった。今回のテーマは庄内だから経緯はザックリにしとこう。三月に上洛した将軍家茂と老中板倉勝静は五月十日の攘夷決行を約束させられると、その日に長州藩が下関海峡を航行する米・仏・蘭船を砲撃した。六月に外国船の報復があり、長州の軍艦は壊滅する」

 

 あんみつガーン 「さらに京都大坂の長州組を中心にした過激派は孝明天皇を大和に行幸...というか拉致し、神輿にしようとしたので、これは不敬不遜と攘夷運動はドン引きになります。八月十八日のクーデター、いわゆる禁門の政変で会津・薩摩が結託し、長州藩と三条実美ら過激派公家は宮中を追われました(七卿落ち)」

 

 しらたまオバケ 「そうと知らない過激派、天誅組は19歳の侍従中山忠光を奉じて大和五条で挙兵し鎮圧された。かつての清河八郎の盟友藤本鉄石はここで落命する。但馬生野では七卿のひとり、従三位澤 宣嘉を担いだ平野国臣が決起するも瓦解。テロやゲリラじゃ世は動かないことを端的に示す結果となった」

 

 あんみつうーん 「異国嫌いを物騒な浪人運動に利用された孝明天皇も、江戸に戻った将軍家茂も攘夷決行など非現実的とあきらめ、事実上撤回されました。ひとまず京都宮廷は公武一体派が奪還しますが、翌元治(げんじ)元年(1864,文久四年が二月に甲子改元)、今度は江戸が騒然となりました。三月、水戸の天狗党が決起したからです(→関連記事 「安政魔風花⑪」)」

 

 しらたまオバケ 「国学者藤田東湖の遺児、22歳の藤田小四郎を頭目とする天狗党が攘夷の気焔を上げ、同調する水戸郷士や他藩の浪士が加わって約300人、筑波山に結集した。軟弱外交を批判し世間の耳目を引く目的だったようだが、藩内で対立する諸生党はこれを反乱とし、討手を向けたので水戸の同士討ちとなる」

 

 あんみつおーっ! 「薩摩藩内でのタカ派ハト派が同士討ちとなった寺田屋事件のさらに規模が大きくなった感じ。水戸藩内の争いに幻滅した他藩浪士は離脱して江戸に潜伏しますが、警戒していた松平権十郎と新徴組によってことごとく逮捕されました」

 

 しらたまオバケ 「浪士に久留米出身儒学者の古松簡二という人があり、筑波山から江戸に戻ってきた。付き合いのあった山岡鉄太郎に事情を話して保護を求めたら、山岡は刀を没収、裸念仏の行者姿にして逃がしてやったという。無益の殺生が嫌いで、剣の達人でありながら生涯刀を抜かなかったという山岡らしい話だよ」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 攘夷決行を巡り京都政界が騒然となるなか、新徴組を預かって江戸警備の任務についた庄内藩はさっそく天狗党逮捕で功を挙げました。

 

 次回、薩摩藩邸焼き討ち事件 のおはなし。

 

 

 それではごきげんようオバケニコ