本日は、みつまめ忘れじのNBA名選手を回顧する後ろ向き企画、「みつまめNBAスーパースター列伝バスケ」。

 

 第115回は、前回に引き続き ‟ビッグチケット” ケヴィン・ガーネット の後編です。

 

 

 NBAトップスターに成長したガーネット擁するミネソタ・ティンバーウルヴズは、KGの文字どおり孤軍奮闘でプレーオフには出られるものの、ファーストラウンドを突破できず、なんと7年連続で一回戦敗退。勝ちに飢えるガーネットのストレスは溜まる一方でした。

 

 2003-2004シーズン、ニックスからラトレル・スプリーウェルと、バックスからサム・キャセールが加入。実績と実力あるサポートキャストを得たガーネットは、平均24.2得点 13.9リバウンドの自己最高成績でシーズンMVP、リバウンド王を獲得しました。

 

 58勝24敗とウエスタン1位で臨んだプレーオフ、ついに1回戦を突破すると、カンファレンスファイナルまで勝ち進みました。来季は優勝も射程圏。ガーネットのボルテージはマックスです。

 

 ところがぁ。チームを浮揚させたことで自身の商品価値に自信を持ったスプリーウェルとキャセールが、年俸アップを狙って移籍を要求。チームはたった1年でまたしても崩壊したのです。このときのガーネットの落胆たるや、観てても気の毒のかぎりでした。

 

 ふたたびガーネットひとりのチームになったウルヴズは弱体化。3年後、優勝したいガーネットはとうとうチームにトレードを申し出たのでした。ミネソタのファンも、こんなスチャラカなウルヴズから出たほうがガーネットの将来にとって良い、と去ることを容認したのですから人望ぶりがわかります。

 

 移籍先はボストン・セルティックス。こことて強豪とはいえず、ラリー・バード時代の1986年を最後に優勝から遠ざかっていましたが、エースのポール・ピアースに加えシューターのレイ・アレンが加入しており、ビッグマンのガーネットが加われば最強トリオ形成が期待されたのです。

 

 2007-2008シーズン、セルティックスは66勝16敗とシーズンを圧倒。ガーネットは 「ディフェンスとふたりのサポートに徹する」 と言いながら平均18.8得点 9.2リバウンドを挙げ、最優秀守備選手賞とオールNBAファーストチームに選出されました。

 

 プレーオフでは若きレブロン・ジェームス擁するクリーヴランド・キャブス、イーストの強豪デトロイト・ピストンズと苦戦のすえ撃破し、NBAファイナルではボストンの宿敵ロサンゼルス・レイカーズと対戦。フルゲームの激闘を制し、待望のチャンピオンリングを手にしたのです。人生の一大決断は最高の結果になりました。

 

 

2008年ついに優勝 KG、アレン、ピアース

 

 

 以降、セルティックスのビッグ3はリーグの強豪として、2010年にはふたたびNBAファイナルまで勝ち進んでいます。ガーネットはNBAの象徴的なスターのひとりであり続けました。

 

 やがて次代のスター、レブロン・ジェームスやドワイト・ハワードに追われる立場になるとガーネットにもようやく衰えが目立ち、2013年にブルックリン・ネッツ移籍。2015年には8年ぶり古巣ミネソタに帰還し、若手のカール=アンソニー・タウンズやアンドリュー・ウィギンズの指南役を買って出ることに。地元ファンの大歓迎を受けると2016年オフ、40歳で21年の長いキャリアを終えました。

 

 引退後はテレビ解説に呼ばれたりNBAチームの相談役になったり投資家グループに名を連ねたりしてますが、まぁリーグ史上最高の高年俸でしたから、悠々自適と言えましょう。

 

 最後にわたくし みつまめの個人的な思い出。

 ガーネットは1999年11月6日、東京ドームでのNBA公式戦ジャパンゲームと2000年9月5日、さいたまスーパーアリーナ開館記念、シドニー五輪を控えたスーパードリームゲームで来日しており、自分はどちらも観に行きました。

 

 

当時のパンフレット 宝物音譜

 

 

 さいたまスーパーアリーナの試合前の練習時。ルーズボールがちょうど観客席前列のみつまめのところに飛んできたので、コートにいたガーネットにポンと投げ返したのです。

 すると、彼はニッコリ笑って自分に向かってサムアップ。

 

 彼にしたらなんでもないことだったでしょうけど、あの、世界のスーパースターが自分にサムアップしてくれるなんてーー、とポポ~っラブとなってしまい、そのあとの試合の記憶がないほど感激興奮したのでした。以降、一生ガーネットについていく~、となったのは言うまでもありません。