*7月23日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のぜんざい教授ねこへびと、教え子の院生・あんみつ君ニコの歴史トーク、今回のテーマは奈良時代です。

 

 本日は、橘 諸兄政権と苦悩の聖武天皇 のおはなし。

 

 

 

 

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 あんみつにやり 「先生、天平九年(737)に藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が立て続けに天然痘で斃れると、朝廷では橘 諸兄(もろえ)が首相格に就きました。この人は橘 三千代の子で、父は皇族の美努(みぬ)王。もとは葛城王の名です」

 

 ぜんざいねこへび 「三千代は同時に藤原不比等を男妾にしていたから、聖武天皇の皇后光明子には異父兄にあたる。葛城王は母の姓である橘を賜い、臣籍に降りるかたちで政権を握った」

 

 あんみつほっこり 「美努王は皇族とはいえ九州にいた地方豪族。その出自も敏達天皇(ç538~ç585)の時代の分家という、昭和終戦まであった伏見宮とか竹田宮みたいな、もはや他人レベルの遠縁です。臣籍に降りたほうが出世の見込みがある」

 

 ぜんざいねこへび 「もともと宮家というのは屯倉(みやけ)であり、同族内でのシマの分け前を意味する。姓を賜れば臣下ということになるから、皇族費の節約にもなる。飢疫と重税により国家歳入が激減していた朝廷にとっても、宰相になりたい葛城にとっても両得だ」

 

 あんみつウインク 「賜姓して橘宿禰(すくね)諸兄を名乗ると、遣唐使から帰国していた僧正玄昉(げんぼう)と吉備真備(きび・まきび)を側近とします。彼らは唐から持ち帰った珍品のお土産で宮廷をにぎわせていましたから聖武天皇・光明皇后夫妻のお気に入りですね。ふたりには天皇に近づく計算だったかも知れませんが」

 

 ぜんざいねこへび 「お気に入りになったのはお土産だけではない。実は聖武天皇の母宮子は、聖武を出産して以来病気がちで、なんと聖武が生まれてから一度も母子対面したことがなかったという。病気というには尋常じゃないから、精神疾患だと思われる。それが、玄昉が <法師一看> するや、たちまち快癒してしまった」

 

 あんみつえー? 「大宝元年(701)八月生まれの聖武が、母宮子と初めて対面したのは天平九年(737)十二月。36年越しに母に会えて、さぞ聖武は感激したでしょうねぇ。それにしても、どうして玄昉が一看しただけで36年間の精神疾患が治ったんでしょう」

 

 ぜんざいねこへび 「おそらく唐から持ち帰った薬を使ったのだろう。薬といってももちろん現代のリチウムやテグレトールのような向精神薬じゃない。おそらく大麻草だ。中国密教の護摩行法では恍惚感を得るためアサ入りの酒を捧げる。ペルシャとかインドの影響だ」

 

 あんみつウシシ 「玄昉は留学18年、長い年月で得た中国での見識は桃源郷のような話題を供したでしょうし、もしかしたら護摩の秘法と称してアヤシゲな治療をしたかも知れませんね。宮子は回復後、玄昉を導師とし片時も手放さなかったと言います」

 

 ぜんざいねこへび 「そのせいか、玄昉の宮廷での評判は芳しくなかった。加えて吉備真備も博学多才を買われて聖武夫妻の信任を得たものの、その出自は吉備国(岡山県)下道(しもつみち)郡の小豪族に過ぎない。官位は従五位上中宮亮。唐帰りだからといって低い身分からの抜擢は他人の嫉妬を買う」

 

 あんみつアセアセ 「もっとも気に入らないのは、四兄弟を一気に喪った藤原氏ですね。式部少輔だった宇合の子・藤原広嗣は大宰(だざい)少弐として筑紫に赴任していましたが、中央から飛ばされたのは橘 諸兄のせいと怨み、玄昉・真備を除くと称し反乱しました」

 

 ぜんざいねこへび 「天平十二年(740)九月、大宰府での挙兵は朝廷を仰天させた。大宰府は ‟遠の御門(とおのみかど)” と称され、九州を管轄し国境を警備するため平城京の四分の一もの規模を持つ大政庁だ。ちなみに現在は役所を宰府、地名を宰府と区別している。この出先機関の反乱はインパクトが大きい」

 

 あんみつ真顔 「藤原広嗣が動員した大宰府軍の主力は九州の隼人(はやと)と言われます。隼人は朝廷の律令支配が南九州に広がるにつれ征服した土着民で、養老四年(720)の反乱を最後に従属。支配のため薩摩国、大隅国が設置されました」

 

 ぜんざいねこへび 「隼人とはもともと縄文時代の昔、東南アジアから渡ってきた移住民だろう。弥生時代には半島からの渡来系が移住してきたうえ、ヤマト政権を構成した九州の豪族に圧迫され南九州に居住していた。服属後は朝廷に武官としても奉仕している」

 

 あんみつねー 「橘 諸兄はかつて広嗣の父宇合の次官だった大野東人(あづまひと)を将軍として討伐軍を派遣。佐伯常人、阿倍虫麻呂といった古くからの宮廷武官に17000人を編成させました。朝廷に上番していた隼人の士官を連れ、彼らを通じて抵抗しないよう説得させたと言います」

 

 ぜんざいねこへび 「今でも鹿児島弁はわれわれには聞き取れないからね。当時の隼人言葉はなおさら独特だったろうし、そのお国言葉で呼びかけられたら戦意は落ちる。彼らにとって藤原広嗣など中央からきた役人貴族に過ぎず、運命を共にする義理はない」

 

 あんみつしょんぼり 「広嗣の大宰府軍と朝廷軍は豊前国企救(きく)郡、板櫃(いたびつ)川で決戦。兵員は大宰府側が多かったものの、隼人の離脱で形勢逆転。敗れた広嗣は五島列島の値嘉嶋から海路耽羅嶋(済州島)に逃れようとしましたが、時化で船が出せず捕らえられました。十一月に連累者とともに処刑されます」

 

 ぜんざいねこへび 「このように、反乱そのものは大ごとにならず早期に鎮圧されたわけだが、聖武天皇は大野東人を派遣するや、突然伊勢国に行幸した。伊勢神宮に戦勝祈願に行ったわけではない。壱志郡河口という野辺に十日も泊まったというから、どうやら遠い九州の戦雲におびえて逃げたようだ」

 

 あんみつウインク 「聖武は仏教に深く傾倒するくらい公私さまざまな煩悩を抱えてた人ですから、大宰府反すの報は耐えられないショックで、もはや気鬱というか神経症状態だったんですね。広嗣逮捕処刑の報を受けるや、やっとこの地を発ちます」

 

 ぜんざいねこへび 「ところが、まっすぐ平城京に帰ることなく、鈴鹿関から美濃に入り、不破関から近江に入り、遠回りの宿泊を重ねて山背国甕原(みかのはら)で天平十三年(741)の正月を迎えた。この地は元正天皇の別荘岡田離宮だ。聖武は思い立ったようにこの地を新都とすると宣言。橘 諸兄は急いで整地にかかる。<首都大移動期> のはじまりだ」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 橘 諸兄を宰相に、唐帰りの玄昉・吉備真備が側近となった聖武天皇の政権。それに反発した藤原広嗣の地方からの反乱は、聖武を深い憂悶に沈めたのでした。

 

 次回、国分寺・国分尼寺創建 のおはなし。

 

 

 それではごきげんようねこへびニコ