本日は、みつまめ忘れじのNBA名選手を回顧する後ろ向き企画、「みつまめNBAスーパースター列伝バスケ」。

 

 第103回は、マジック・ジョンソン伝のつづきです。

 

 

 NBA入りして10年、マジックがヒザの不調に悩まされはじめ、カリーム・アブドゥル=ジャバーも40歳を越え衰え目立つようになると、レイカーズのチーム力も盛りを過ぎます。1989年ファイナルはマジックは試合に出ることも出来ず、親友アイザイア・トーマス率いるデトロイト・ピストンズにスウィープされ3連覇はなりませんでした。

 

 この年でカリームは20年間のキャリアを終え、翌年にはパット・ライリーHCも退任。名実ともにレイカーズの一枚看板となったマジックは1989年(平均22.5得点 7.9リバウンド 12.8アシスト)、1990年(平均22.3得点 6.6リバウンド 11.5アシスト)と連続でシーズンMVPを獲得。NBAを象徴するスターとしてマイケル・ジョーダン、チャールズ・バークレー、アキーム・オラジュワンら次世代スターの台頭から分厚い壁になり続けました。

 

 1990-1991シーズン、58勝24敗の西2位で迎えたプレーオフ、クライド・ドレクスラー擁する63勝19敗のポートランド・トレイルブレイザーズに下馬評を覆してアップセット。2年ぶりキャリア9回目のファイナルに進んだマジックとレイカーズを待ち受けていたのは、マイケル・ジョーダン擁するシカゴ・ブルズでした。

 

 

最後のNBAファイナルはジョーダンと

 

 

 マジックvsジョーダン、世紀の対決と注目された大一番。正直チーム力ではブルズ優勢の前評判ではありましたが、初戦でマジックは2点ビハインドのラストプレーで、まさかのサム・パーキンスへスリーポイントをうながす奇策パスを成功させ、世に ‟ファイナル・マジック” と呼ばれるプレーを見せました。シリーズは4勝1敗でブルズが勝利し、ジョーダン7年目の初優勝。

 

 そのシーズンオフ、10月にレイカーズは当時ヨーロッパとの国際交流で実施されていた 《マクドナルド・チャンピオンシップ》(1987~1999)に参加すると、パリでフランスのリモージュとスペインのバダロナと試合し、熱狂的な盛り上がりのなかマジックがMVPを受賞しました。

 

 マジック32歳。ヒザの心配はあれどまだやれる、と本人もチームも考えており、契約更改のためマジックは健康診断を受けます。マジックとバードのおかげで隆盛したNBAはスター選手の年俸が高騰していましたが、立役者のマジックのサラリーはさほどでもない、という奇妙な状況になっていたからです。

 

 ところが、チームドクターは極秘裏にマジックをロサンゼルスの病院に検査入院させます。突然のチーム離脱を訝しむプレスとチームメイト。公式発表は夏風邪でしたが、不整脈ではないかと憶測するメディアもありました。

 

 11月8日、LAフォーラム内の記者会見場でマジックはHIV感染と現役引退を発表。当時はまだHIVの知識がなく、エイズと同義に理解されていたことはご承知のとおりです。バスケットボールの激しいプレーは命取り。いや、接触により他の選手に感染させるかも知れない。おりしもフレディ・マーキュリーの死は11月24日のことでした。きっとマジックも遠からず亡くなってしまうのだろう。。。

 

 

1991年11月8日 引退発表

 

 

 マジックはクッキー夫人と結婚したばかりでした。大学時代から11年交際していましたが、試合に負けるとピリピリする性格を自覚していたため、20代のうちは結婚をためらい、付いたり離れたりの不思議な関係だったのです。もっとも、そのせいで浮名を流しまくり、HIVをもらってしまったのですが...

 

 不幸にも、ようやく結婚したとたんの悲劇。クッキー夫人は妊娠しておりましたが、胎児は陰性だったのがせめても幸いでした。この子はアービン3世と名付けられ、現在は他に一男一女の里親になっています。

 

 当初、エイズ発症に怯える日々だったマジック。それでも1992年オールスターに特別出場が認められ、25得点9アシストでMVP。バルセロナ五輪の 《ドリームチーム》 結成に奔走し、金メダル獲得と元気な姿を見せ続けました。金メダル表彰式、サマランチ会長から直々にメダルをかけられ感無量のマジックをみて、これが最後の晴れ姿...とおそらく世界中の人が思ったことでしょう。

 

 

 続きの次回がラストです(@^^)/~~~