*5月21日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のぜんざい教授ねこへびと、教え子の院生・あんみつ君ニコの歴史トーク、今回のテーマは徳川家康です。

 

 本日は、駿府のブレーンたち のおはなし。

 

 

 

 

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 あんみつほっこり 「先生、駿府の大御所家康と江戸の将軍秀忠には、それぞれ個性的なブレーンがいますね、江戸で首相格になったのは譜代の功臣・大久保忠隣(ただちか)。講談で ‟天下の御意見番” ということになっている大久保彦左衛門の甥にあたり、武事・行政に秀で、人望もあったという秀忠付き家老です」

 

 ぜんざいねこへび 「同じく早くから秀忠に付けられていた譜代の老臣、酒井忠世と叔父の酒井忠利。さらに秀忠の幼少期から傅役だった土井利勝、安藤重信、青山忠成、内藤清成は新興の家柄から入閣した。まだ老中とは言われなかったから、年寄とか老職とか、文書に署名することから <加判(かはん)> などと呼ばれる」

 

 あんみつぐすん 「二元体制で実権は駿府にあるとはいえ、江戸ではまったく首脳部が変わり、秀忠にごく近いグループが抜擢されたんですね。一方の駿府では、かつて家康を支えた武将の酒井家次、榊原康政、本多忠勝、井伊直継のいわゆる四天王の家柄はすっかりカヤの外におかれ、三河以来の元老は皆無。家康がもっとも信頼を寄せたのは、本多正信と正純親子でした」

 

 ぜんざいねこへび 「本多正信はかつての三河一向一揆(1563)で家康に歯向かい、平定後は京都加賀と出奔、大久保忠隣の父忠世のとりなしで帰り新参がかなった経歴だ。家康の関東入り後、領国経営において辣腕を振るい、その信頼は絶大。家康は万事を正信に相談しており、文字どおり水魚の交わりだったという」

 

 あんみつウシシ 「帰り新参のうえ戦場での武功がないのに家臣団トップに立っては、歴戦の武将からは憎まれます。榊原康政も本多忠勝もその死にあたって正信への皮肉を口にしたとか。そうまでして家康が正信を信頼したように、駿府では実務に長けた補佐役を抜擢したんですね。象徴的な人物は大久保石見守長安です」

 

 ぜんざいねこへび 「長安は元の名を大蔵藤十郎。猿楽師あがりから鉱山採掘の才を買われ武田信玄に仕えると、家康の関東入りで徳川に召し抱えられ大久保忠隣の配下になった。ここで手腕を発揮し大久保姓を与えられたという変わり種だ。治水や土木の知識もあり、一時は大名から ‟天下の総代官” と呼ばれるほど家康からの信頼は厚かった。もっとも得意としたのはやはり鉱山だ」

 

 あんみつもぐもぐ 「上杉から接収した佐渡金山、旧毛利領の石見銀山はいずれも長安に任せられたんですね。すると飛躍的に採掘量が増したといいます。本 理由は長安が配下にした山師がヨーロッパ伝来の新しい技術を身に着けていたからですね。従来の竪穴堀では湧水のためすぐ廃坑になったのを、横穴堀にすることで排水可能にしたり、精錬においてもルソン(フィリピン)やノビスパン(メキシコ)の技法を研究導入していました」

 

 ぜんざいねこへび 「しかし長安自身も文字どおり <山師> のケがあったようだ。鉱山町に住む山師は免税優遇の代わりに長安に上納金を払ったため、長安自身のフトコロがおそろしく潤ったんだ。その財力は幕閣で突出するようになり、その死後大事件を引き起こすことになるが、それはあとにしよう」

 

 あんみつにやり 「財力といえば、家康のパトロンというべき御用商人たちもブレーンに参画しています。有名なのは茶屋四郎次郎ですね。本能寺の変のあとの伊賀越えにあたって、情報と資金を提供したのが茶屋の父。先代を継ぐと長崎でアジア貿易を手がけ、国際外交とその利益で家康に貢献しました」

 

 ぜんざいねこへび 「貿易では長崎奉行の長谷川左兵衛、河川交通を拓いた角倉了以(すみのくら・りょうい)なども主導者に挙げられる。彫金師の後藤庄三郎は新通貨の慶長金銀鋳造にあたって金座銀座支配を任され、末吉勘兵衛、湯浅作兵衛を代官にして財官界を束ねた。後藤は常に家康に近侍し、渡海朱印状を発行していたので外国商人からは財務長官と目されていたほどだ」

 

 あんみつウインク 「外国人顧問のウイリアム・アダムス(三浦按針)、ヤン・ヨーステン(耶楊子)は以前出てきましたね(→「黄金・銃・伝道⑧」)。家康はオランダ・イギリス・スペイン・ポルトガルとのヨーロッパ貿易に積極的でしたが、やがて新教国と旧教国の対立と貿易利権の問題からキリシタン禁圧に踏み切ります。それを主導したのは寺社行政を担った金地院崇伝(1569~1633)でした」

 

 ぜんざいねこへび 「一色氏に生まれた崇伝は足利幕府滅亡で南禅寺に引き取られ、熱心に修行と勉強に励んだという。建長寺住職から南禅寺住職となり、37歳で臨済宗最高位に立った。塔頭金地院(たっちゅう・こんちいん)に住んだことでその名を冠す。家康が彼を召し出したのは、漢学の素養ある臨済僧が外交事務を担当する慣例からだが、ヨーロッパ貿易に漢学は関係ないから、やがて役割は宗教界を幕府支配に組み込む体制側の仕事になる。人呼んで ‟黒衣の宰相” だ」

 

 あんみつねー 「そしてもっとも異質で謎多き側近僧侶は南光坊天海(1536~1643)ですね。珍説では明智光秀の後身などと言われ(笑)、108歳もの長寿をまっとうした人です。比叡山で修行し、武蔵国仙波、喜多院の住職だったという以外あまり経歴がハッキリしないから、伝説の入り込む余地が出るんでしょうけど」

 

 ぜんざいねこへび 「天文五年(1536)、会津高田城主・葦名兵部景光の子として生まれ、双子だったため小僧に出されたというのが最有力だ。家康との出会いは慶長十二年(1607)で、織田信長に弾圧された天台宗延暦寺を再興・統制するため比叡山南光坊に移り住み、その人格識見を家康が感服、駿府に呼ばれて近侍することになった。7歳上の天海への家康の尊敬は絶大だったという」

 

 あんみつうーん 「崇伝がいささか腹黒い権謀家の役回りだったのに対し、天海は善玉イメージですね。高僧らしく慈悲を第一とし、むやみに家臣を罪に落とすことを嫌い、しばしば赦免減刑を家康に直言したので、諸大名からも頼りにされました。文字どおりアメとムチのコンビという感じ」

 

 ぜんざいねこへび 「こうした各分野のブレーンの献策を取り入れたり、議論を闘わせたりさせて特定の権力者を出すことを防ぐと同時に、幕府そのものの権力基盤を固めていった。家康にとって幸運なことにさらに残された余命があり、それを対豊臣と秀吉によって破壊された国際外交の復興に尽力するが、草創間もない幕府内部にもやはり脆さがあった」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 江戸開府するや、家康は現実的な政治家グループを登用し、戦国乱世を共に生き抜いた功臣は総退場。その範囲は新参から豪商、外国人、僧侶とさまざまでした。

 

 次回、大久保長安一件 のおはなし。

 

 

 それではごきげんようねこへびニコ