本日は、「MSI=みつまめスケプティック委員会」 からの活動報告です
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古今東西あまた世間をにぎわせたフェイク科学系の話題を総ざらいし、信頼に足る真相に迫ります
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今回は、地名由来の誤解 を特集します
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有名な地名には、それぞれの由緒があります。
とくに歴史的経緯があり、時代を越えて残った地名というのはまさに無形の文化遺産と言えましょう。
ところが、実はイメージと異なり、歴史とは無関係のそれっぽい有名地名がある。そうしたケースをいくつか検証してみましょう。
①銀座のほとんどは銀貨鋳造所跡ではない
徳川幕府の造幣局たる <銀座> に由来するというのは有名。
慶長十七年(1612)に徳川家康が駿府から移転させ、京橋の南側四町が、銀貨鋳造所と座人の住居として与えられました。現在でいう銀座一丁目から四丁目の中央通りに面したところ。ここまでは史実です。
ただし地名が <銀座> になったのは明治二年(1869)からで、江戸時代の地名は <新両替町> でした。
それが関東大震災(1923)の帝都復興で大幅に拡張され、戦後の高度経済成長期には銀座のエリアは従来の12倍の面積に。古色ゆかしい尾張町・十間堀・数寄屋町・木挽町といった地名が吞み込まれて消滅しました。住民がみな繁華街として栄える銀座ブランドにあやかりたかったのです。
そればかりか、品川の戸越銀座、長野県の飯田銀座、栃木県の鹿沼銀座、愛知県の銀座本町、山口県の徳山銀座など、全国に銀座のつく地名は500近くあるそうですが、これらはすべて戦後になってから歓楽街の象徴として本家にあやかったもので、銀貨鋳造所とはいっさい関係がありません。
②春日部市は春日部皇女由来ではない
「クレヨンしんちゃん」 の舞台で有名な埼玉県東部の市町。
鎌倉時代の御家人・春日部氏を由緒とし、その源流は古代、安閑天皇(ç466~ç536)の皇后・春日山田皇女の部民(べのたみ=私有民)にあると言われます。つまり、春日の部が住む地。
ところが、これは1944年(昭和十九)に内牧村と町村合併したときにつけられた漢字で、それまでの地名は <粕壁> でした。
ここは奥州街道/日光街道の宿場町で、ちょうど江戸からの旅人が最初の宿をとる場所ということで宿場・商業・物流の拠点として発展、大きな商家が軒を連ねました。つまり粕壁の屋敷が並ぶ町だったのです。
表記が春日部となるや、そのオシャレな字面から、周辺の豊春村や武里村を呑み込み、1954年(昭和二十九)には現在の人口23万人の大きな市になりました。
➂八重洲はヤン・ヨーステンの屋敷跡ではない
オランダ船リーフデ号の航海士ヤン・ヨーステン。慶長五年(1600)四月に豊後に漂着すると、航海長だったイギリス人ウイリアム・アダムス(三浦按針)とともに徳川家康に引き立てられ、外交顧問として信任を受けました。
日本名は <やようす(耶楊子)>、あるいは <やえす(八重洲)>。
江戸城の内側、日比谷堀沿いに屋敷をもらったので、現在も中央区 <八重洲町>、東京駅東の <八重洲口> にその名を残しています。
今の丸の内二丁目に <八重洲町> の名がついたのは明治五年(1872)。それ以前は大名屋敷だったので町名はありませんでした。しかし関東大震災の復興事業で地番整理されたとき、いったん消滅しています。
それが1929年(昭和四)、東京駅に東口が出来た際、外濠を渡る八重洲橋に続くという意味で <八重洲橋口> と命名されますが、戦災復興の資材置き場にされたため八重洲橋は閉鎖。またもや八重洲橋口の名も抹消されました。
1954年(昭和二十九)、日本橋呉服橋と槇町が合併したとき、八重洲町の名が三たび復活。こうしたいきさつのおかげで、もともとあったヤン・ヨーステンの屋敷跡とは場所が変わり、日比谷→丸の内→現八重洲と、だんだん東にズレていったという次第です。
地名だけが移動
それではまた、次回の報告会でお会いしましょう
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