*1月15日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコ、今回はしらたま教授オバケとの歴史トークで、テーマは安政の大獄です。

 

 本日は、雪の桜田門 のおはなし。

 

 

 

 

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 あんみつイヒ 「しらたま先生、大老・井伊直弼の安政の大獄でもっとも憎まれ、苛烈な処分を受けたのは水戸藩でした。御三家である徳川斉昭が、一橋慶喜の実父にして強烈な排外主義者であったことから、将軍継嗣問題における一橋派や、日米修好通商条約調印反対派から井伊の対抗馬として支持されたからです」

 

 しらたまオバケ 「とはいえ、実は水戸藩といえどもまったく一枚岩じゃなかった。たしかに水戸の烈公斉昭は尊王にして攘夷だが、同時に敬幕でもある。斉昭が目をかけた藩内の革新派は国学者・藤田東湖(1806~1855)を慕う下級藩士で 《天狗党》 と呼ばれた。鼻ならぬ志が高い連中、と斉昭が目をかけたからだ」

 

 あんみつしょんぼり 「そうなると、当然ながら天狗党を気に入らない上級藩士たちが出てきますね。御三家たる水戸が頭越しに尊王などおこがましいと考え、下級藩士どもが藩政に容喙するなどとんでもないと警戒する彼らは 《諸生党》 をもって任じました」

 

 しらたまオバケ 「諸生党の領袖は水戸の執政・結城寅寿(とらじゅ,1818~1856)だったが、斉昭と対立の果て失脚した。天狗党は斉昭の側用人になった藤田東湖を仰ぎ藩の主流となるも、安政二年(1855)十月に発生した安政大地震で、倒壊した自宅の鴨居の下敷きになり亡くなってしまった。実母を庇ってのことだったと言う。東湖の死は水戸藩の運命を大きく揺り動かす」

 

 あんみつねー 「東湖は水戸だけでなく、幕臣や他藩の士からも多く師礼を受けた相当な人物です。性格も穏健篤実でしたから天狗党も軽挙はしませんでしたが、その東湖がいなくなると諸生党が盛り返し、党派の争いが激しくなります」

 

 しらたまオバケ 「そうした状況での安政五年(1858)八月の水戸への勅諚降下は、まさに猛火の元だ。これを朝廷からの攘夷督励であると勇躍したのは天狗党の激派。それに対し天狗党の穏健派と諸生党は鎮派と呼ばれ、大獄が起きるとこの両派の意見対立は抜き差しならないものとなる」

 

 あんみつ真顔 「水戸斉昭が井伊大老から永蟄居処分となり、藩士たちが大量処分を受けると、安政六年(1859)十二月には朝廷への勅諚返上を命じられました。鎮派をまとめる国学者・会沢正志斎(1782~1863)は返上止む無しと履行しようとしますが、激派の一部がこれに反発、脱藩して憎い井伊に一太刀報いるべく江戸に潜入します」

 

 しらたまオバケ 「高橋多一郎・金子孫二郎・関 鉄之介といった17人の面々だ。彼らは水戸と薩摩をつないでいた日下部伊三次を通じて盟友となった薩摩藩士・有村治左衛門と合流したので計18人。水戸藩庁は脱藩を許さず討手を出したが、長岡(茨城町)で藩士同志の斬りあいにまで発展したのち逃亡すると、江戸の京橋に潜伏、機を窺うことになる」

 

 あんみつえーん 「徐奸、つまり奸物井伊を打倒するテロの実行は安政七年(1860)三月三日上巳節句の日。西暦の今では3月24日ですから、江戸が大雪に見舞われるなんて珍しいですよね。そのせいで、外桜田の彦根藩邸から登城する井伊大老の従者60余人は雨合羽姿。刀には柄袋をつけていたので急な応戦が出来ませんでした。偶然の不運です」

 

 しらたまオバケ 「水戸での脱藩騒動は井伊の耳にも入っていたし、当日、襲撃計画があるのは知っていたようだ。大獄以来、命を狙われる立場にあるのは重々承知だったしね。だが大老の権威のためいつもどおり登城した。藩邸から桜田門は100メートルほどの近さだから、ここでの襲撃はないと踏んだのかも知れない」

 

 あんみつえー? 「桜田門外、松平親良の杵築藩邸門前を過ぎたあたりで、見物人に扮した森 五六郎が訴状を持って直訴の素振りをみせると、近づいた供の者がいきなり斬りつけられました。駕籠脇の徒士が取り押さえようと駕籠を離れたとき、黒澤忠三郎の放ったコルトのリボルバー銃弾が駕籠を貫きます。大老暗殺に拳銃ってなんだかミスマッチな気がしますけど」

 

 しらたまオバケ 「そんなことはない。オランダ製の短銃は江戸中期からもう出回っていて、国定忠治などは手下に数十挺ものピストルを与えてカチコミに使っていた。井伊を撃った拳銃はアメリカ製だから、攘夷であっても外国の武器は買う節操のなさではあるね」

 

 あんみつぼけー 「応戦の遅れた彦根藩士は銃声と同時に殺到した18人に斬り立てられ、駕籠には白刃が突き刺されました。はじめの銃撃ですでに大老は息絶えていたようです。井伊は有村に首を取られますが、その有村は従者に斬られて路上で死にました」

 

 しらたまオバケ 「大老の首は奪回され、辰ノ口の番所から井伊邸に届けられると、藩医によって胴と縫い合わされた。殺害されたことを隠匿するためだ。病気療養を名目にしばらく休職し、あとから病死を公表した。もちろんこれは体面上のことで、事件は大騒ぎになったから江戸中に駆け巡り、当日のうちに瓦版が発行されている」

 

 あんみつショック 「従者の彦根藩士は死者8人、負傷者十数人。襲撃犯18人のうち、有村のほかは重傷者4人が自刃しました。斎藤監物らは老中・脇坂安宅(やすおり)邸に自首、斬奸趣意書を提出し、取り調べののち処刑されました。2人だけが逃亡しきって明治まで生存、数奇な人生を送ります。彦根藩士の従者は、護衛に失敗した責任を問われ、全員斬首の重い処分が下されました」

 

 しらたまオバケ 「井伊は享年46。32歳まで部屋住みで暮らし、彦根藩主になれたのは36歳のとき。大老就任は安政五年(1858)四月だから、首相の任にあったのは2年足らずだ。その間に将軍代替わりをし通商条約を調印、反対派を弾圧と史上に残る仕事をやったわけだから、評価は別として避けては通れない人物だよ」

 

 あんみつにやり 「大雪の日に徒党を組んで大物を襲撃するというのは、なにやら忠臣蔵と共通するものがあります。奇しくも、1936年(昭和十一)の二・二六事件も東京に大雪があった晩でした。世間の喝采を受けた赤穂浪士の義挙が、後世の彼らの脳裏によぎったかも知れません。井伊を討てば我々は歴史を変えた人物になれるんだ、みたいな」

 

 しらたまオバケ 「うん、昭和の青年将校たちにも赤穂浪士や桜田事変への連想があったはずだ。それが世間に及ぼした悪影響を思えば、それはまさに英雄気取り、独善的で危険な正義感とも言える。水戸浪士が脇坂老中に提出した斬奸趣意書では、井伊を奸賊としながらも、<公辺(幕府)を正道に返すため> としているから、幕府に反逆する気まではなかったんだ。だが結果論として、この事件は時代は大きく動き出すきっかけになった」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 桜田門外の変として史上に刻まれる大事件の直接の要因は、井伊大老に対する水戸藩激派の暴発に他なりませんでしたが、井伊政権のいきなりの終焉は、大老を補佐した者たちの運命をも一変させます。

 

 次回、長野主膳の最期をもって今シリーズの最終回です。

 

 

 それではごきげんようオバケニコ