*11月15日付記事 の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコニコは、今回はしらたま教授オバケとの歴史トークで、テーマは徳川家斉の大御所時代。

 

 本日がシリーズ最終回、感応寺スキャンダルのおはなしです。

 

 

 

 

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 あんみつべーっだ! 「しらたま先生、将軍家斉は文政十年(1827)三月、在職40年を期に朝廷から太政大臣に叙任されました。武家では平 清盛や足利義満、豊臣秀吉や徳川家康など、史上屈指の豪傑しか昇っていない極官です」

 

 しらたまオバケ 「それだけ太平を謳歌する世の象徴になっていたんだ。その治世も晩年の天保五年(1834)二月、腹心の水野忠成が73歳で歿すると、繰り上がりで松平周防守康任(やすとう)が老中首座として組閣するんだが、いきなり汚職事件が発覚する」

 

 あんみつむっ 「竹島事件、ですね。当時の竹島は例のあそこじゃなく、今でいう欝陵(ウルルン)島ですが、石見浜田藩の廻船問屋・会津屋八右衛門が、竹島で仕入れた魚介や木材を元手に朝鮮から東南アジアにかけて大規模な密貿易で巨利を得、藩主に賄賂してお目こぼししてもらった一大スキャンダルです。その藩主というのが、首相の松平康任」

 

 

「朝鮮竹島渡航始末記」

 

 

 しらたまオバケ 「当時は慢性的な財政難から、薩摩藩や加賀藩など領海を持つ大藩が密貿易を行っていたのは公然だった。鎖国体制は有名無実化していたと言っていいだろう。あの間宮林蔵が密偵としてそれらを調べていたのだが、あろうことか幕閣の中枢が手を染めていたことが発覚したわけだ」

 

 あんみつショック! 「おりしも冷害と凶作により、東北地方を中心に世上は天保の大飢饉(1833~1839)に見舞われました。かつての寛政の改革で備蓄がなされ、ある程度の被害軽減はなされたものの、貧民の犠牲は甚大。米価高騰により、都市部でも一揆や打ちこわしが発生しました。大坂天満の元与力・大塩平八郎が庶民の味方をして蜂起したのはこのときです(天保八年二月)」

 

 しらたまオバケ 「松平康任罷免のあと、組閣した大久保加賀守忠真、松平和泉守乗寛はいずれもすぐ亡くなってしまい、社会の混乱に迅速に対処できなかった。65歳の将軍ももはや気力を失くしていたようで、天保八年(1837)四月、在職50年にしてついに将軍職を世子・家慶に譲り、大御所となった。家慶とてすでに45歳の壮年だ」

 

 あんみつシラー 「首相は水野越前守忠邦。やがて万民を震え上がらせた恐怖政治 <天保の改革> で知られる強権リーダーとなりますが、隠居の家斉が健在な4年間は、手出しできませんでした」

 

 しらたまオバケ 「家斉が亡くなったのは天保十二年(1841)閏一月。享年69。水野忠邦は待ちに待ったとばかり粛清の嵐を吹かせる。その手始めは放漫財政の是正で、その一環としてなんとも大御所時代らしい、淫靡なスキャンダルにメスを入れた。感応寺事件だ」

 

 あんみつ得意げ 「事の発端は家斉の愛妾・お美代。養父は以前出てきた中野清茂(石翁)ですが、実父は下総中山・法華経寺の祈祷僧日啓でした。偏頭痛持ちの家斉が具合い悪くなったとき、花沢という大奥の女中が日啓を呼んで祈祷させたところ快復したので、大奥での尊敬を得たと言います」

 

 しらたまオバケ 「江戸のラスプーチン、といってはいささかスケールがショボいけど(笑)、日啓のカリスマ性は将軍と大奥をトリコにした。日啓も調子に乗り、将軍に霊が憑いているだの、江戸に火難の相があるだの、やたら妖言を用いて恐れおののかせた」

 

 あんみつかお 「ただでさえ将軍ひとりのために数百人の女性が駕籠の鳥状態の大奥。ドロドロした人間関係は怪談や流言飛語の元です。家斉は社殿や祈祷所を作って、日啓を生き仏として頼りにしました」

 

 しらたまオバケ 「クライマックスは雑司が谷・鼠山に建立した感応寺だ。三万坪(東京ドーム2個分)の敷地に本堂・釈迦堂・書院から五重塔・宝蔵までフルセットの壮麗な伽藍が並び、天保七年(1836)十二月に完成。将軍家から御三家、大名から江戸の庶民までが参拝と見物に押しかける、一大新名所となった」

 

 

感応寺の壮観 わずか5年で破却

 

 

 あんみつニコニコ 「将軍家の肝いりですから、もちろん、大奥の女中たちも参詣は公用ということで、おおっぴらに外出が許されます。敷地には大名家から寄進された花や可愛い小動物、池には魚が目を楽しませました。女中たちはお弁当持参で、お参りというより遠足気分でうれしかったでしょうね」

 

 しらたまオバケ 「しかしハメを外しすぎたようだ。やがて僧房における若い修業僧たちとの醜聞がささやかれる。奥女中が交代で、着物を入れる長持に隠れて寺に入り、淫楽に耽ったなんていう <生人形> の風説があったほどだ。男子禁制の大奥と、女子禁制の僧侶、それが出会ったらどうなるか。感応寺が官能寺、とはヒドい駄洒落だけど」

 

 あんみつ得意げ 「うはは。水野忠邦は家斉が薨去すると、すぐに寺社奉行の阿部伊勢守正弘に吟味を命じます。正弘は22歳の若さですが、のちの黒船来航では首相としてリーダーシップを執った俊英です。残念にも39歳で亡くなってしまい、もし彼が長生きしたら、幕末の歴史は変わっていたろうと思える人物です」

 

 しらたまオバケ 「阿部正弘は将軍と大奥の威信低下に配慮しつつも、果断に日啓と一味を処刑し、感応寺は破却。建ててわずか5年で文字どおりブチ壊した。水野忠邦も改革の号砲として、家斉の側近で権勢を振るった中野石翁、林 忠英、水野忠篤、美濃部茂育らを根こそぎ罷免・身代没収とした」

 

 あんみつにひひ 「以後、幕府は天保の改革から黒船来航と幕末の動乱期に入ります。家斉の時代はまさに最後の泰平でした。お美代は前田家に嫁入りした娘の溶姫の保護を受け、明治五年まで生きたとか。その溶姫輿入れのときに作った御守殿が、今の東京大の赤門でしたね。いやぁ~、しらたま先生、家斉の時代は政治も社会も外交もいろいろあって興味深かったです」

 

 

 

 

 

 「大御所半世紀」 シリーズはこれで終了です。

 長々のお読みをいただきありがとうございました。

 

 また次回のあんみつ君の歴史トークにご期待ください、ぜんざい教授ねこへびは元気に巣ごもりしております。

 

 

 それではごきげんよううさぎクッキー

 

 

*** オバケ参考図書ニコニコ ***

 

・北島正元 「日本の歴史18 幕藩制の苦悶」

・岡崎守恭 「遊王 徳川家斉」

・藤田 覚 「松平定信 政治改革に挑んだ老中」

・大石慎三郎 「江戸時代」

・家永三郎 「日本文化史」

・萩原裕雄 「江戸幕閣人物100話」

・永井路子 「悪霊列伝 将軍家斉の周辺」

・丹野 顕 「江戸の名奉行」

・永井義男 「本当はブラックな江戸時代」

・大森洋平 「考証要集」

・山田風太郎 「忍者黒白草紙」