*7月12日付記事 の続きです。
R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回もEメールでのやりとりで、テーマは 「駿・遠・三の太守」 戦国大名今川氏。
本日は、今川義元の章・花倉の乱と河東一乱です。
あんみつ “先生、天文五年(1536)三月、今川氏輝が24歳の若さで亡くなり、家督を巡ってまたもや今川家は割れます。候補者は栴岳承芳(せんがく しょうほう)と、玄広恵探(げんこう えたん)。どちらも氏輝の弟で、幼いうちから僧籍に入っていました”
ぜんざい “事実上、今川家を取り仕切っていた氏輝の母・寿桂尼は、承芳を後継にしようとしたが、重臣の福島越前守(正成とも助春とも)らが恵探を立てて反発した。史料不足で異論異説がありすぎるんだが、有力な解釈では恵深の生母が福島氏の女性で、寿桂尼-承芳親子との対立が表面化したようだ”
あんみつ “承芳は当時18歳。善得寺(富士市)において、高名な太原崇孚(たいげん すうふ,1496~1555)こと雪斎禅師の保護と養育を受けていたんですね。将軍・足利義晴の偏諱を受けて還俗、今川義元 と名乗り、駿府の今川舘に入りますが、五月、久能城においてついに福島勢が挙兵しました”
ぜんざい “福島氏に担がれた恵探は花倉(藤枝市)の遍照光寺の住持だったので、この戦いを <花倉の乱> という。福島氏は遠江に影響力を持つ豪族だったから、氏親時代に今川領となってまだ日が浅い遠江では、恵探派が強盛になった。情勢によっては、駿河と遠江が分裂しかねない”
あんみつ “ここで寿桂尼と雪斎禅師は、氏親時代からの盟友である、伊豆・相模の北条氏綱に支援を求めました。六月に氏綱からの援軍が着到すると、一気に攻勢に転じた義元勢が勝利を収め、恵探を討ち果たします”
ぜんざい “氏輝以来の重臣・岡部親綱により遠江の福島勢も平定され、義元による家督継承が決まった。だが北条氏綱の力を借りたことは、のちのちの弱みになると判断したようで、義元は甲斐・武田信虎の娘を妻を迎え(信玄の姉)、武田家と同盟を結ぶことにした”
あんみつ “武田信虎とは、直近まで今川・北条が連合して籠坂峠(甲駿相の国境)で衝突していました。それがいきなり同盟では、せっかくの助勢を裏切られたと北条氏綱が激怒するのも当然ですねぇ”
ぜんざい “天文六年(1537)二月、氏綱は富士川を越え駿河に侵攻した。長い友好関係の手切れだ。北条勢はすさまじい勢いで河東地域を占領する。甲斐との同盟に反対だった豪族や、花倉で破れた残党も敵に廻り、義元は窮地に立たされた”
あんみつ “<河東一乱> と呼ばれる、今川・北条の全面戦争ですね。花倉の乱を収め家督を継いだのに、大きな味方だった北条氏を敵にして領内を戦乱に落とすなど、義元の意図がぜんぜんわかりません”
富士川河東を巡る駿相抗争
ぜんざい “今川と北条の友好は、先代の氏親と宗瑞時代のものだ。代替わりして同盟を保ったとはいえ、北条にしたら今川が主筋にあたるというコンプレックスがあり、今川には過去、宗瑞の働きで駿河を保持できた負い目がある。花倉の乱のあと、北条勢がお為ごかしに河東に進駐した可能性があるから、義元にしたら熟慮の末の判断だったのだろう”
あんみつ “甲斐は甲斐で、遺恨ある今川と同盟したことで信虎に反抗する豪族が出ました。領国統治ってほんとに難しいなぁ”
ぜんざい “義元は家中の統制に手いっぱいで、河東は北条氏に占領されるがままだった。北条氏綱は天文十年(1541)七月に55歳で亡くなり、27歳の氏康が継承すると、関東情勢に変化が起こる”
あんみつ “奇しくも同時期、甲斐で武田晴信(信玄)による家内クーデターが発生し、武田信虎が強制隠居させられました。娘婿である義元を訪問した駿府から、帰路を封鎖されたものです”
ぜんざい “たしかな史料上では、この事件の動機真相は不明だ。だが義元は以降ずっと信虎を <御舅殿> として厚遇したし、晴信との同盟は維持している。天文十四年(1545)八月、河東奪還を狙う義元は武田晴信と連合、しかも武蔵国の山内上杉憲政、扇谷上杉朝定とも連携し、北条氏康包囲網を敷いた”
あんみつ “氏康は河東と、武蔵河越の二方面で大軍を相手にしなければならない、一転しての大ピンチですね”
ぜんざい “十月、氏康は武田晴信の仲介で、今川義元と矢留め、和睦を受け入れた。北条勢は河東の長窪城から撤収し、今川方に明け渡す。義元は8年ぶりに駿河全土を取り戻したんだ”
あんみつ “今川・武田との和睦で武蔵方面に戦線を集中できた氏康は、天文十五年(1546)三月に有名な <河越合戦> に大勝利し、関東の覇者として踏み出すことになります”
ぜんざい “北条氏康は武蔵へ、武田晴信は信濃に侵出し、駿河はようやく平穏を取り戻した。いわゆる甲相駿の三国同盟はまだ先の話だが、義元は見事に難局を乗り切ったと言えるだろう。掛川城を預けた重臣・朝比奈泰能(1497~1557)の働きで反抗的だった遠江の豪族も収拾し、三河に目を向けていく”
今回はここまでです。
家督を巡る内乱から、いきなり強豪戦国大名との領土争いに身を投じた義元は、危機を切り抜け駿河・遠江奪還に成功しました。
次回も今川義元の章・三河忿劇(そうげき)のおはなし。
それではごきげんよう