*2月4日付記事 の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のぜんざい教授ねこへびと、教え子の院生・あんみつ君ニコニコの歴史トーク、今回のテーマは 壬申の乱 です。

 

 本日は、23年目の王位 のおはなし。

 

 

 

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 あんみつにひひ 「先生、白村江の戦い(663年)で敗れ、海外戦略に頓挫した中大兄皇子は、逆に唐・新羅連合の来襲に備えなければなりませんでした。まぁ、連合軍は高句麗と戦端を開いたから日本どころじゃなかったわけですけど、当事者にしたら心配でたまらなかったでしょうね」

 

 ぜんざいねこへび 「戦後の664年、旧百済の鎮台から、また翌年には唐の正使が日本にやってきた。おそらくかなり恫喝的に日本の軍事行動をたしなめる使者だったのだろう。中大兄は筑紫の大宰府に 水城(みずき) という防衛施設(大野城)や、壱岐・対馬に 烽火(とぶひ) と呼ばれる緊急連絡システムを整備した」

 

 あんみつシラー 「敗戦の責任を母・斉明天皇に負わせた中大兄は、その後なかなか自ら王位に立ちませんでした。663年から668年の足掛け6年にわたり、王不在のまま中大兄が政務を執った年月を 称制 と言いますけど、どうしてだったんででしょうか」

 

 ぜんざいねこへび 「乙巳の変で政権を奪取してから長い年月が経ったが、中大兄の手はあまりにも血塗られすぎている。蘇我入鹿や対立する豪族・皇子を排除したばかりか、母王すら犠牲にしたわけだからね。冷徹な執政者としてならまだしも、王として奉るには豪族間で強い摩擦があったのだろう」

 

 あんみつむっ 「例の、実妹・間人皇女との不倫も翳を落としたでしょうね。皇女は665年二月に亡くなりましたが、その際330人もの僧を得度させて弔いました。667年には斉明天皇と皇女を小市岡(高市郡)に合葬しています。中大兄にとって特別な女性だったのは事実でしょう。でもいくら近親間の婚姻が珍しくない古代の王族とはいえ、実妹ですからねぇ」

 

 ぜんざいねこへび 「さらに中大兄は畿内を離れ、近江国大津京に遷都した。群臣の反対を押し切ってまで敢行したのは、やはり唐・新羅の襲来に備えて交通の便がいい・・・ハッキリ言うと逃げやすい土地に宮殿を構えたかったんだ」

 

 あんみつべーっだ! 「そこまでやるとなると、さすがに名実ともに王として総責任者にならざるを得ません。668年正月、大津宮で王位に就きます。乙巳の変(645年)から23年目、中大兄(諡号:天智てんぢ天皇)は43歳になっていました」

 

 ぜんざいねこへび 「自ら王位に立ったのは、後継問題もあったと思われる。後継には弟の 大海人(おおあま)皇子 と定めたのだが、天智が本当に地位を譲りたかったのは実子の大友皇子だ」

 

 あんみつ得意げ 「天智は四皇子、十皇女を儲けたなかで、いちばん愛したのが大友。でも彼の母は 采女(うねめ) という地方豪族から献上された女官で身分的には低かったから、後継者にするには相当キビしかったと思われます」

 

 ぜんざいねこへび 「そもそも、いまだ豪族連合の域を出ない大和政権において、わが子へのスムーズな継承など保証されない。蘇我氏だって 馬子・蝦夷・入鹿 と三代続いたのち滅びた。天智が同族継承するためには大海人が器量的に適任だったろうけども、どうしても愛児に継がせたくなったんだね」

 

 あんみつかお 「天智朝は 庚午年籍(こうごねんじゃく) という全国規模の戸籍や、近江令と呼ばれる律令制の整備を図るなど内政に尽力します。遣唐使帰りの進歩系官僚の功績だと思うんですけど、王位約四年の671年十二月、天智は亡くなります」

 

 ぜんざいねこへび 「最期にあたって天智は大海人を死の床に呼び、後継を命じるが大海人は辞退、吉野に隠遁して出家することを願い出た。これで後継は大友皇子と決まり、大海人は即座に髪を下ろして吉野に向かう。まるで逃げるようにね」

 

 あんみつしょぼん 「もし大海人が後継を引き受けたら、その場で暗殺されたかも知れませんね。少なくとも大海人はそう思ったから、追っ手がかからないうちに吉野に奔ったのでしょう。古人大兄皇子や有間皇子のことがあるから、天智ならやりかねない」

 

 ぜんざいねこへび 「天智は死に臨み、大友皇子と左大臣・蘇我赤兄、右大臣・中臣金、御史大夫・蘇我果安、巨瀬人、紀大人 の五重臣に血盟の誓いを立てさせた。力を合わせて大友を盛り立ててやってくれ ということだ」

 

 あんみつにひひ 「吉野に無事逃れた大海人を、世の人は “虎に翼をつけて放ったようなもの” と評しました。やがて起こる大友と大海人の戦いの伏線ですね」

 

 ぜんざいねこへび 「中国の巨大帝国・唐を建国した高祖李淵は、嫡子・李建成を後継に決めたものの、最も戦功を挙げた李世民の名声が高まり、玄武門の変が起きた(626年)。先に李淵は争いを避けようと、世民を洛陽に送ろうとしたが、群臣は “虎を野に放つようなもの” と大反対したと言う」

 

 あんみつショック! 「あれぇ、なんだかよく似た話ですね。権力者のやることって一緒なのか、それとも唐で起きた事件を 『日本書紀』 がトレースしたんでしょうか。にしても、天智の歿後、大和政権は最大の岐路を迎えます」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 強烈な野心とリーダーシップで蘇我氏以降の大和政権を掌握した中大兄は、大権力を持つ王として歿しました。

 

 対外政策の失敗もあり、中央集権化を仕上げるまでに至らなかった天智朝の跡目を巡って、近江と吉野の決戦に行き着きます。

 

 次回はいよいよ 壬申の乱 です。

 

 

 それではごきげんようねこへびニコニコ

 

 

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