*4月23日付記事 の続きです。
R大学文学部史学科のぜんざい教授
と、教え子の院生・あんみつ君
の歴史トーク、今回のテーマは武田勝頼です。
本日は、甲相対立と、高天神城攻防戦のおはなし。
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あんみつ
「先生、御館の乱で上杉景勝と同盟したことで、武田は織田徳川だけでなく北条氏も敵に廻してしまいました。さっそく北条氏は、東上野や駿河に出兵して武田領に侵入します」
ぜんざい
「そうした動きに対して、勝頼は北条氏と敵対していた常陸の佐竹義重や、安房の里見義頼と同盟して関東を牽制する。東上野での戦いは真田昌幸の活躍で終始武田勢が圧倒し、北条氏は押されっぱなしだったよ(天正七~八年)」
あんみつ
「しかし、いくら北関東で勝利しても、難題なのは西側の織田徳川ですよね。信長は石山合戦に忙殺されていたから出兵してきませんでしたが、徳川家康との遠江での抗争は苦戦していました」
ぜんざい
「関東での北条氏との対戦で手薄になったのと、やはり軍資金難が大きい。遠州城東の高天神城は要衝だったので、この城を巡り激しい攻防が展開されていた。そのさなか、家康にとって人生最大の悪夢に見舞われる」
あんみつ
「嫡男・徳川信康が武田と内通したという疑惑が起こり、切腹を命じた事件ですね(天正七年九月)。この事件では家康正室の築山御前をも謀殺させるなど、家康は容赦のない過酷な処罰をしました」
ぜんざい
「実に謎の多い事件だ。古来、信康の不行跡を夫人の徳姫が父親の信長に訴え、信長が処刑を命じた などと言われるが、そうした話は徳川時代になってから、神君・家康を非難できない世の中で創作されたものだからね」
あんみつ
「となると、やはり武田との内通は事実とみるべきでしょうか。近年では浜松城の家康と岡崎城の信康のあいだで、家臣団をも二分した深刻な対立が生じていたという研究が成されています」
ぜんざい
「うん。武田信虎・信玄・義信や、御館の乱でもわかるように、親子兄弟だからといって関係がスムーズだとは限らない。戦国の世では家臣団を抱える分、肉親の情愛だけではどうにもならない面もある。いずれにせよ、家康は妻を討ち、愛児を切腹させた。のちに天下人になったせいで、その悲劇は隠蔽された」
あんみつ
「家康にとって高天神城攻防戦は、特別な意味があったでしょうね。城将・岡部丹波守真幸は800人ほどの手勢で、天正八年(1580)十月から半年にわたってよく防戦します」
ぜんざい
「家康は持久戦に持ち込み、城の糧食を絶った。岡部は必死に勝頼に対して援軍を要請したが、徳川・北条に前後から挟まれた武田は補給路を絶たれ、軍費に窮乏し、結局援軍を出さず見殺しにしてしまったんだ」
あんみつ
「高天神城の陥落は天正九年三月。“湯のような粥でなんとか生きていた” 城兵は討って出て全滅します。この悲惨な落城劇は、武田と武田に従う豪族にショックを与えましたね」
ぜんざい
「“武田のために戦っても、助けてくれない” という評判が広まってしまったからね。事実、これ以来豪族の離反が相次ぐ。武田家衰亡は、まさにここから始まったと言っていいだろう」
あんみつ
「しかも、このころには信長も十年に渡った石山合戦を終了し、本願寺・顕如光佐と和睦します。これによって、信長もとうとう甲信侵攻に本腰を入れられるようになりました」
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本日はここまでです。
歴史の結果論ながら徳川信康を道連れにしたとはいえ、高天神城の失陥という大打撃は、武田を滅亡の坂道に追い落とします。
次回、人間なだれ現象・・・裏切りの連鎖と、勝頼天目山の露に消える をもって、シリーズ最終回とします。
それではごきげんよう(^O^)/。
