*2013年11月3日・11月16日・12月11日 及び 2014年1月16日・1月28日・2月25日・3月25日・4月15日・5月6日・6月1日 記事の続きです。


 R大学文学部史学科のあんみつ君ニコニコは、日本史概説の講義テーマである、豊臣秀吉の事績についてゼミの担任・ぜんざい教授ねこへびから習っています。

 天下統一後の秀吉の、虚と実をみていきましょう。


             ⋆⋆⋆ 関連年表 ⋆⋆⋆

   1590(天正18) 7月 北条氏滅亡、全国平定成る
   1591(天正19) 2月 千 利休 自刃
             8月 秀吉、フィリピンに入貢督促
             12月 豊臣秀次 関白叙任
   1592(文禄元) 3月 朝鮮出兵 
             6月 征明令
             8月 小西行長、沈惟敬 練光亭で和平交渉
   1593(文禄2)  1月 碧蹄館の戦い
             8月 秀頼生まれる
   1594(文禄3)  3月 伏見城 築城
   1595(文禄4)  7月 豊臣秀次 高野山に追放
             8月 秀次の家族処刑
   1596(慶長元)  閏7月 伏見の大地震
             9月 明使と伏見で会見 和議決裂
             12月 長崎浦上でキリスト教徒を処刑
   1597(慶長2)  1月 再度朝鮮出兵 
             8月 鼻そぎ令
             12月 蔚山の戦い
   1598(慶長3)  3月 醍醐の花見
             8月 秀吉逝去



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 あんみつかお 「先生、豊臣秀吉による天下統一は1590(天正18)年で、以降の秀吉は謎としか言いようのない行動をいくつも取っていきますね。腹心の茶人・利休を処刑したこと、跡継ぎに指名したはずの甥っ子・秀次を切腹させたこと、そしてなにより文禄・慶長の役です」

 ぜんざいねこへび 「朝鮮出兵に関しては長い間、歴史学者の一致する見解がなかった。つまり得るところがなにもなかったからね。動機も目的もはっきりしないから、天下人になって燃え尽きた秀吉が、モウロクして始めた暴挙なんじゃないかと言われるほどだ」

 あんみつむっ 「ところが、意外と秀吉は早い段階から大陸侵攻の意思を吹聴してるんですよね。1586(天正14)年の九州征伐において、『唐国まで切り入る』 と書状にしたためています」

 ぜんざいねこへび 「秀吉はホラの達人だからね。まだ関東を平定していない時期なのに西国諸大名に向かって、今や天下で従わないのはその方らだけだ と揺さぶっている。だからはじめは九州の大名に対する威嚇として、頭越しに大陸侵攻する勢いがあると示したのだろう」

 あんみつシラー 「このとき対馬の豪族・宗 義調に対して、李朝へ服属を要求するよう命じているばかりか、次いで 呂宋(=フィリピン)、高山(=台湾) にも入貢を求める書簡を出しています」

 ぜんざいねこへび 「注目すべきは、これらの書簡に対して相手国はほぼ反応していないのだが、秀吉自身が国内大名向けの書状で、外国が続々と服従を申し入れてきたと言いふらしていることだ。国内向けに自身の威光を誇示するためのハッタリ、というのが正確な見方だろうね」

 あんみつ得意げ 「当時のキリスト教宣教師がローマ教会に報告した 『耶蘇会日本年報』 では、秀吉の目的は物や領土でなく、名声を得るためだと断言しています」

 ぜんざいねこへび 「おそらくは、天下平定以前には国内統治のための威圧として海外侵攻のプランを口にし、統一達成後はさらに名声を得て豊臣の天下を磐石にするための “事業” のつもりだったのだろう。累代の家来を持たない秀吉にとって、所詮は泰平の時代を治める力量はなかった。戦いのなかでカリスマ性を誇示し、天下万民を従わせる以外の手法を知らなかったんだよ」

 あんみつしょぼん 「秀吉にとっての限界は、自身が吹聴した大陸侵攻プランの引っ込みがつかなくなって、実行せざるを得なかったことですね。文禄・慶長の役と言われる朝鮮出兵は、最初だけ快進撃でしたが、次第にドロ沼化します」

 ぜんざいねこへび 「当初は 唐(中国・明朝)・天竺(インド・ムガール朝) までも切り取ると豪語してた秀吉だが、みるみるうちに朝鮮半島で劣勢になる。李朝・宣祖王が明朝に救援を求めたからだ。当時の明朝はこれを含め “万暦三大征” と称される戦乱に脅かされた結果、国力が衰退し清朝に滅ぼされることになるから、東アジア史にとっても大きな事件だったと言えるね」

 あんみつむっ 「1592(天正20)年3月に諸大名に対して渡海命令を下したのちは、いったん和平交渉の席につきましたが決裂して再度開戦、結局秀吉が死ぬまで8年間にわたり朝鮮での戦乱が続きます。せっかく戦国時代が終わったのに」

 ぜんざいねこへび 「和平交渉に関しては、小西行長の独断で明朝に対し降伏を申し入れ、それを知った秀吉が激怒したという話があるが、それは事実ではないようだ。小西は事細かに秀吉から指示を受けたうえで交渉しているよ(『江雲随筆』 『李朝実録』)。だから秀吉はモウロクなどしておらず、どうにか対面を取り繕ったまま、朝鮮から撤退しようと苦心していたんだ」

 あんみつしょぼん 「でもなにも得るところがないのに、国内の大名・庶民に対して勝利をアピールすることなんて不可能ですよね・・・結局、秀吉は自身が始めた大言壮語によるハッタリ作戦にがんじがらめになった末、死ぬまで打開できなかったことになります。残った事実は朝鮮半島を焦土にしただけ」

 ぜんざいねこへび 「折り悪く、和平交渉中の1596(慶長元)年閏7月13日、伏見の大地震という震災が近畿地方に発生し、伏見城をはじめ方広寺の黄金大仏など、秀吉のカリスマ性のモニュメントというべき建造物が倒壊してしまった。震災で焼け出された民衆は多数にのぼり、社会不安は計り知れなかった。民衆の不満が天下人である自身に向くことをおそれた秀吉は、外征の決行以外にカリスマ低下の危機をしのぐ方法はないと考えたのだろう」

 あんみつかお 「それでせっかくまとまりかけた和平交渉を反古にしたんですね。演出と宣伝と財力で権威を飾ってきた秀吉が、地震で灰になった街並みとともに、カリスマ崩壊の恐怖にさらされる。なんかはかないですねぇ」

 ぜんざいねこへび 「秀吉はなぜ大陸侵攻したのか、その理由と、今までの見解ではそれが漠然としてた理由もなんとなくわかるんじゃないかな。晩年の秀吉がモウロクしてたというのは、まぁ、英雄・秀吉を失政からかばうための好意的な解釈だろうね」

 あんみつシラー 「さらに秀吉は、国内においても後継者問題というプライベートな悩みも抱えていました」

 ぜんざいねこへび 「そう。それじゃあ、最後に利休事件と秀次事件をざっとみてみることにしようか」

 
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 今回はここまでです。

 天下統一後も、泰平の世には君臨できなかった秀吉。

 その矛盾は、跡を継ぐべき家族や家来にもカゲを落とします。

 次回は利休事件と秀次事件の謎。

 これをもって、本シリーズの最終回にする予定です。


 それではごきげんようm(_ _ )m。