*5月6日・5月26日・6月14日・7月10日・7月27日記事の続きです。

 

 R大学文学部史学科のあんみつ君ニコニコは、夏のあいだも日本史特講のテーマ、平安時代の摂関政治について勉強を続けています。

 

 中央と地方、二層に分かれた平安時代の社会背景を経て、ようやくたどりついた本論は、藤原氏の摂関政治の全盛期を築いた藤原道長の事績。

 

 ゼミのぜんざい教授ねこへびの助けをかりつつ、華やかさと権謀が同居した宮廷社会の本質を探ります。

 

 

         *** 藤原道長 超・略年譜 ***

 

 966(康保3) 藤原兼家の四男として誕生。兄は道隆・道綱・道兼

 986(寛和2) 兼家摂政に。道長、右兵衛権佐任官(21歳)

 987(永延1) 源倫子と結婚、左京大夫 任官

 988(永延2) 権中納言 叙任

 995(長徳1) 権大納言に兼ねて内覧の宣旨、右大臣に登る

 996(長徳2) 藤原伊周左遷。道長左大臣に登り氏長者(31歳)

 999(長徳4) 娘彰子、一条天皇の女御として入内

 1008(寛弘5) 中宮彰子、敦成親王を生む

 1011(寛弘8) 一条天皇崩御、三条天皇即位

 1016(長和5) 敦成親王即位(後一条天皇)、道長摂政に(51歳)

 1017(寛仁1) 摂政職を長子・頼通に譲る。道長、太政大臣叙任

 1018(寛仁2) 太政大臣辞任。娘威子入内、「望月の歌」を詠む

 1019(寛仁3)  病気のため出家、無量寿院の造立開始

 1027(万寿4)  道長歿(62歳)

  

 

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 あんみつニコニコ 「さて、とうとう藤原道長の治世ですね。生い立ちとしてよく知られているのは、藤原兼家の四男坊で、とても氏長者になれるとは本人も思わなかったであろう立場だったことです」

 

 ぜんざいねこへび 「うん、実際、正暦元年(990)の兼家死後、摂政を継いだのは長兄の道隆であり、さらにその跡は三兄の道兼だ。長徳元年(995)に流行病でふたりが相次いで亡くなったことで道長が表舞台に出る機会が訪れるが、そのときには道隆の子・伊周(これちか)が成人しており、道長にとっては最大のライバルだった。まぁ、伊周にとっても道長が煙たかったろうがね(笑)」

 

 あんみつシラー 「え~と、次兄の道綱はあまり出世争いには絡まないんですね、最高位は右大将か。母親は 『蜻蛉(かげろう)日記』 を書き遺したことで知られる <藤原倫寧(ともやす)の女(むすめ)> ですが(←この時代の女性は固有名詞なし)」

 

 ぜんざいねこへび 「うーん、前回も言ったが、この時代の貴族の婚姻は夫婦同居をしない通い婚でね。子どもが産まれたら母親の実家で養育し、ある程度育ったら父親の元に移され、しかるべき官位をもらって宮廷デビューする段取りだった。要するに、父親と子どもの関係ははっきりとわからないケースもあったってことだろう。兼家の息子4人のうち、道綱だけまるで他人のような扱いと言わざるをえないからね(笑)」

 

 あんみつにひひ 「はぁ、なるほど(笑)。とすると、やはり道兼死後の藤原氏の氏長者争いは道長か伊周、ということになりますね。この両者、ひどく仲は悪かったみたいですねぇ、宮中でつかみあいのケンカまでしてますし(長徳元年七月)」

 

 ぜんざいねこへび 「気鋭の若き右大臣と内大臣、そしてともに内覧と、宮中の出世争いにしのぎを削ることを最大の生きがいにしていた平安貴族にとって、最大最強のライバル同士だからね、抜き差しならないものがあったようだ。ちょっとここで、この時代の出世の序列をおさらいしておこうか」

 

 

 

 

 あんみつべーっだ! 「貴族は一位から九位までの位階があって、それに相当する官職を得ていく出世レースになるわけですが、実際は、生まれた家柄によってある程度の限界が生じます。道長や伊周はトップ中のトップになれる可能性があったから、激しく反目しあったんですね」

 

 ぜんざいねこへび 「その争いは、結局、伊周の自滅というかたちで終結する。伊周が通っていた藤原為光の三女のもとに、出家していた花山法皇が出入りしているという噂を聞きつけ、伊周サイドの従者が法皇を弓矢で威嚇射撃するという不祥事が起きた。伊周の従者はかねて道長の従者と衝突しるなど血の気が多かったんだ。さらに伊周に依頼されたという法師が、道長や一条天皇の生母を呪詛して逮捕されるなど、不穏な事件が相次いだことでついに伊周は左遷される(長徳二年五月)」

 

 あんみつにひひ 「呪い、ですか(笑)。この時代は迷信がすごいですからね。でも、それらの事件は道長にとっては、伊周を追い落とす絶好のチャンスになったわけですよね」

 

 ぜんざいねこへび 「それが道長の喰えないところだ。ふつう、こういうライバルの失態が起こると、これ幸いと迅速な処分に出るところなんだが、道長は慎重に慎重に捜査を進め、じゅうぶん証拠が揃ったところでようやく処分を発表するという手堅い手続きを踏んだよ」

 

 あんみつ得意げ 「喜び勇んでさっさと伊周を追放したら、一条天皇や他の貴族に白い目でみられるのを怖れたのかも知れませんね(笑)。私情じゃなく、あくまで正規の手続きですよ、みたいな体で」

 

 ぜんざいねこへび 「うん、まさにそうだろう。しかも伊周は翌年にはあっさり許されて京都に復帰している。まぁ、そのときにはすでに宮中は道長のものになっていたから、もう決着はついたという余裕からだろう」

 

 あんみつかお 「道長は短気で豪快な性格だったと聞きますが、そうした緻密な計算もする面もあったんですねぇ」

 

 ぜんざいねこへび 「そうそう、豪快といえば、そんな道長の性格がよく知られ、また彼の事績を調べるための第一級の史料が、この6月に <世界記録遺産> に登録されたよ。道長自筆の日記 『御堂関白記(みどうかんぱくき)』 だ。」

 

 

みつまめのLITTLE DOLLS for your life
『御堂関白記』(陽明文庫所蔵)
長保六年(1006)ニ月六日分


                  

 あんみつべーっだ! 「あ、聞いたことがあります。現存最古の自筆による貴族の日記で、藤原道長自身の原本が14巻も残ってる貴重なものですよね」

 

 ぜんざいねこへび 「主に近衛家の記録を保存する京都の陽明文庫の所蔵でね、西暦でいう998年から1020年まで、とびとびながら藤原道長全盛期にあたる長期の記録だ。当時は毎年、陰陽師が作った <具注暦> というカレンダーが貴族役人に配布されていてね、その巻物の余白部分を利用して日記が書き込まれている。それは道長だけじゃなく、当時の日記類はだいたいそうだよ」

 

 あんみつ得意げ 「この道長の日記はすごくおおざっぱというか、型にとらわれない書き方をしてると聞きます。分量がその日によってまちまちだったり、体裁や字の大きさも不揃いだったり」

 

 ぜんざいねこへび 「まぁ、気まぐれでこだわらない性格だったのははっきりわかるね(笑)。誤字脱字も多いし。たとえば有名な、寛弘二年(1005)ニ月二十三日に、こんな記述がある」

 

            於馬腸殿 初調薬

 

 たった7文字だ(笑)。しかも間違いがふたつあって、これを正しく読むと

 

         馬場殿に於いて調楽を初む

 

 となる。馬場殿という建物で楽器の練習をはじめた、という意味なんだが、場が腸になってるし、楽が薬になってるし、で正しく読むのがひと苦労だ。この日記は万事そんな調子だからね。これをぜんぶ研究して、読解した歴史学者を尊敬したまえよ(笑)」

 

 あんみつニコニコ 「はい(笑)。歴史というのは膨大な史料を全文、検討して時間軸を再現していくたいへんな仕事ですよねぇ。でもおかげで、ボクらも正式な歴史書のないこの時代のことがよくわかるようになったわけですから、素晴らしいことです」

 

 ぜんざいねこへび 「そうだよぉ~。ほんとの歴史学者というのは、地味ぃ~な仕事をコツコツ積み重ねていくものなんだ。ただテキストを読んで、あーだこーだ歴史について駄弁るのは誰にでも出来るが、そのテキストをつくるのにどれほど手間をかけてるのかブツブツブツ...」

 

 あんみつえっ 「あの~、せんせ?」

 

 ぜんざいねこへび 「ハッ、失礼失礼(笑)。ちょっと寄り道したが、それじゃ氏長者になって権勢の坂を登る道長の事績を、さらにみていこうか」

 

 

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 今回はここまでです。

 

 ライバル藤原伊周を追い落とし、宮廷社会のトップに立った道長。ここからさらにその地位を磐石にしていきます。

 

 

 それではまた次回m(_ _ )m。

 

 

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