パウル・ワインラントが、ベルリン・フィルハーモニー音楽堂でその第一回目の会合を開催したときには、彼は一種の煙幕を張るために、ユダヤ系の講演者を獲得しようと大変な努力をしたのであった。この最初の大会において、ワインラントは、科学的というよりはむしろ政治的な演説をしたのであったが、その後にベルリンの有名な実験物理学者ゲールケ(E.Gehrcke)が立ち上がった。かれは、その実験においてはいかなる誤りも犯さないが、犯さないが、ただ個々の事実から綜合へ移るべき鋭い理解力と奔放な想像力とを欠いた人の観点から相対性理論を批判した。このような人々は、普通に旧い仮定はすぐに受けいれる。それは習慣によって彼らが、それらが事実でないことを忘れてしまうからである。しかしながら彼らは、新しい理論には「ばかばかしい」、「経験的科学に反する」という焼印を好んで押すのである。さらに、アインシュタインの理論は「真理」でなく「作りごと」にすぎないことを証明するはずになっていた一哲学代表も招待されていた。この人はユダヤ人の出であったが、この会合のクライマックスたるべく予定されていたのである。彼は政治には暗かったし、招聘は至急電報で発せられたにもかかわらず、最後に彼は辞退した。それは、彼の友達が彼にこの会合の目的を説明したからであった。その結果、第一回目の攻撃は哲学からの非難なしで行われた。
アインシュタインはこの会合に聴衆として出席し、友好的な精神で攻撃に拍手さえした。彼はいつも、彼をとりまく世界に起こる事件を、劇場の観衆のような態度でみることを好んだ。したがってこのグループの大会は、彼には、プラハにおける大学学部の会合や、プロイセン科学アカデミーの会合のように面白かった。
このグループによるその他の会合も何回か行われた。そしてこの年には、「アインシュタイン問題」は新聞にいつも現われる討論主題となってしまった。アインシュタインは周りから、これらの攻撃に対する彼の意見を公に表明するよう要求された。しかしながら、彼が科学的議論をとり扱いつつあると考えているかのように行動することが彼にとってはいやであった。かれは、多くの人々にとっては理解できない問題であり、かつてこれらの会合てなんらの役割も果したことのない問題を公に議論することを好まなかった。そこでついに彼はこれらの全事件を終焉させるために、ベルリンの一新聞に、科学的になんの意味もない議論に対して科学的に答えることは意味がないと書いた。(後略)
フィリップ・フランク著 矢野健太郎訳 岩波現代文庫『評伝 アインシュタイン』より(P260からP262)
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