¡Que será, será! -5ページ目
ブログというのは週に一度以上は更新していきたいものですよね。精進してまいります。
お晩です。mnr0oooopsです。


ブログの更新ということにも直結することですが、今日のテーマは「記録に残す」ことについてです。

自分のやってきたことや思い出、考えたことなどなどを記録に残しておくことは、非常に重要だと最近感じます。
それは後から振り返ることが出来るからです。


私の趣味がお掃除という話は、私の近辺の方々ならご存知かと思います。

先日私はお掃除の一環として、PCフォルダとUSBの整理をしていたのですが、「懐かしいもの」が三つでてきました。
中高それぞれの卒論と、三年ゼミ選考時のエッセイ、そしてSmilyで使用してきた毎回のプレゼン資料です。


中高それぞれの卒論に関しては、書いたことをほとんど全く覚えておらず、
「当時はそんなことを考えていたんだなぁ」と懐かしくなったり、文章の稚拙さに恥ずかしく感じたりして新鮮な気持ちで読めました。

ゼミ選考エッセイに関しては、内容は大体覚えていたものの、改めて当時の文章を読むことで
いかに自分が今のゼミに入りたかったのかという熱意を思い出すことが出来、初心に帰れたように思います。

プレゼン資料に関しては、それぞれ自分がプレゼンしてきたこともあり、内容はほとんど全部覚えていたのですが、
各プレゼンを時系列で追っていくと、スライドの使い方や資料の見せ方に進歩が見られ、とても嬉しかったです。


これらの「懐かしいもの」は、五年後、十年後の私が見たらまた違う感想になることでしょう。
当然、このブログについてもです。


私は中高生のころ「写真」というのが大嫌いでした。

太ってて自分が醜くて嫌だったというのもありますが(笑)、そんなことしなくても自分はこの大切な瞬間をきちんと覚えておけるという自信があったのです。

しかし残念なことに、今こうして何年か前のことを振り返った時、当時のことを事細かには再現できないものです。
加えて、覚えているにしろいないにしろ、写真のような形に残っているものがあれば、想いでの再現率はぐっと上がると思います。
私は、「記憶」に頼って「記録」に十分に残していなかった自分を、割と後悔しています。

思い出は、確かに心に残っています。
しかし、悲しいかな人間の「思い出」というのは、その後に出会う新しい感性やら価値観やらで、どんどんその時の「思い」を上書きしていってしまうのです。

その時のことを「その時」のままのかたちで残すには、「記憶」より「記録」に頼るのも手なのではないでしょうか。



つまり何が言いたいかというと、
残せるものは残しとこうよ ということです。

私のようなモノの多い状態を嫌うような人間にも便利な世の中になったもので、最近はあらゆるものをデータ化して保存出来ます。
写真なんかはもちろん、手書きのノートなんかもデータとしてとっておけますよね。

私は授業のノートやらレジュメやら、役割を終えたものについてはどんどん捨てていくタイプなのですが、
特に重要だと思うものについてはスキャンしてとっておいてあります。

そうしたものは、自分のPC一台から参照できますし、しかも実際に物をとっておくのと違い「検索」なんてことも出来ますから非常に便利です。



記録に残し、後から振り返るということは、想像以上に「今」の自分に良い刺激を与えます。
「今」の自分を記録に残しておくことは、「未来」の自分への自己投資といえるでしょう。
どうも、随分御無沙汰です。mnr0oooopsです。


最近大学での勉強の重要性を感じる場面が多々あります。

私が活動している学生団体Global Studentsでのイベントで来てくださった双日総研社長の多田様曰く、
グローバルで活躍するための資質は、宗教を、政治を、テクノロジーを、学ぶこと。
(イベントについて詳細はこちら→GS道場ファイナルイベント_2011.12.15→)

この間読んでいた記事では、国際政治の授業で習った「ソフトパワー」の概念がしれっと登場。
(ちなみにその記事はこちらです→The beginning of a new world order



大学一年生の時。
私は、自分の大学での学びにどうしても納得いかず、
「大学がやってくれないなら自分でやるしかないじゃない」と、
二年生から学生団体やサークルで新しい活動を始めてみたり、自分で勝手に本や記事を読んだりということをしていました。

しかし、色々と学べば学ぶほど、大学の座学の勉強の大切さを痛感しています。


一年生の頃、自分の教養のなさから大学の授業の価値を落とした自分自身と、
それに気付かず大学自体に責任をなすりつけていた当時の考え方を、本当に情けなく思います。



勉学に限らず、足元を固めるということは非常に重要だと思います。

例えば、いわずもがな人間関係。
足場がしっかりしていなければ、他者への働きかけも出来るはずありません。


また例えば、日本人としてのアイデンティティ。

私は中高での短期留学の経験や、大学生活のなかで「世界」ということをしばしば考える機会がしばしばあり、、
そうすればそうするほど、自分の足元=「日本」に対しての知識と認識の甘さを痛感します。

とくに自分で好き勝手に動き出した二年生からはこの意識は顕著で、
二年の夏は、阪大を志していた頃の自分を思い出すということと、日本の開国時代の面影に触れるという目的で、大阪と神戸を一人旅しました。

これは非常に有意義だったので、今年も一人旅する予定です。
今年の8月は、原爆の日に広島・長崎をそれぞれ訪れ、日本の世界における平和構築のイニシアチブについて考える旅をする予定です。
またこの旅ではちょうど動線上ということもあり、維新のくに・長州(山口ですね)や、島根の出雲神社をめぐり、伝統と先進のバランスすばらしい京都・奈良も行こうかなと画策中。まぁこの辺はお財布と相談ですね(笑)

また、9月には所要で湘南に行くかもしれないので、もしそうなったら鎌倉めぐりもしたいです。実は今まで一度も行ったことありません、鎌倉。





そんな感じで、日頃思っていることをつらつら書かせていただきました。
これからはもうちょっとマメに更新したいものですね・・・。


それでは!
「もしあの時こうしていたら・・・」
「もしあの人がいなかったら・・・」

歴史にも個人の人生にもつきものの「たら」「れば」。

あくまで仮想の世界であり、決して現実にはなりません。


それを、小説の世界で実現したのが、赤川次郎「死と乙女」。


死と乙女 (角川文庫)/赤川 次郎

¥620
Amazon.co.jp


「あなたのお父さん、死のうとしている。」

言うのも言われるのも肝を冷やすこの一言、
この一言を言った場合といわなかった場合、
それぞれの主人公・えりのその後が一冊の本で同時進行的に描かれていきます。


赤川先生の作品は小学生のころだいすきだったのですが、
(三毛猫ホームズシリーズは近所の図書館のものを読破した記憶があります)
何なんでしょうね、この方は自分の世界に読者を引き込むのが非常にお上手なように感じられます。

もちろんそれぞれの小説ごとに世界観はあるんですけど、
この人独特の色合いがあるんですよね。
なぜだろう。キャラクターがいいのかな。


実家に帰ってきているので、実家の本を紹介しましたー。
小学生のころ読んでいた本でも、今読むと印象が違うね。
一度読んだ本をもう一回読む面白さはここにあると思います(*^^*)


それではまた。mnr0oooopsでした!