二冊とも、何ともつかみどころのない本である。しかし、面白い。
昨日の午前中はこの二冊の所々を読み返していた。読み返す箇所は決まっている。
かつて自分で線を引いた箇所か、または端を折ってあるページである。
私は本を読みながら、気になった箇所にはドンドン線を引く。手元にラインマーカーがない場合は、その箇所のページの端を折る。二冊ともほぼ線は引かれていないが、飛び飛びでページの端が折られている。そのページを読んでみた。
相変わらず合点が行かない(笑)。
あ、そう言えば・・・解説は二冊とも養老孟司が書いていたんじゃなかったっけ・・・と確かめると記憶の通りだった。
『内臓とこころ』の方の解説のひとくだりに注意を引かれた。
「現代社会では、理の話は腐るほどある。でもそれを上手に動かす情が欠けている。シラけるとは、それをいうのであろう。」
うーむ。
この寸言は鋭い。
例証など付記されていないが鋭い。いや、例証は読者が考えればいいのだ。
あの泉鏡花は、小説が理に落ちることの愚かさを語っていた。そうなのだ。情に浸りたいから小説を読むのだ。
小説に限らない。
人を行動に駆り立てるのは情である。「人間味」と言われるものも、つまるところ情である。
あの「江夏の21球」でも、江夏がスクイズを瞬間的に見破り、カーブの握りのまま外したのも理ではない。情である。ベンチ含めて相手チーム全体の動き、中でも三塁コーチャーズボックスにいる仰木コーチの挙動がいつもと違うことを直前に見抜いたのは江夏の情である。
その江夏は投球術について「ロボットが投げているのではない、人間が投げている。だからこそもっともっと人間探求としての投球術を身に着けたかった」という意味のことを語っていた。
機能と効率に対抗するのも情である。
シラケにもマンネリにも対抗するのは情である。
同じことを同じように言ったとしても、どんな肚で言うかで俄然、様相は違ってくる。それは理は同じでも情が全く違うからである。
そもそも、一人の人間総体が情なのであり、常に動き続ける最も繊細で勝手な感覚受容体である人間の行動と感覚は情なしには成り立たない。
・・・とまあ、理と情というキーワードを解説者の養老先生が提示してくれたおかけで、いろいろと好き勝手に考えられたひとときだった。