奇妙な夢を見た ※修正加筆しました | 恋着、横着、漂着 遊び盛りゆるゆるのびのび60代

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2年早く退職して機能と効率のタガを外すことが出来ました。
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 昨夜、奇妙な夢を見た。

 

 自分は学校の教員である。しかも新米で、これから初めての授業を控えている。(教員の仕事を辞めて30年になるが、最近になっても教員の仕事をしている夢を見る。)

 授業に向かう前にふと両手を見ると指がおかしい。

 左手の指が3本、右手が7本、いや右手だけで10本あったりする。

   同僚たちは「それは幻視だ」と言う。指がおかしいのではなくて、目または脳がおかしいのだ、と。

 それでも動揺している自分はこの異変を周囲に更に訴えようとするが、舌がもつれてうまく話せない。

 不明瞭な発声で「脳梗塞になってしまった」と嘆き訴える。

 しかし、急場しのぎに向かいたい校内の保健室の場所が分からない。生徒の一人はかつての同僚になっている。その人物に意思を伝えるが、全く理解されない。

 職員室に向かう。

 数段も高い處に座る校長に直訴する。

 「どうした、君、いつものシャキッとした、キビキビした口調じゃあないな。よし、じゃあ私と一緒に保健室に行こう」

 と言ってくれる。

 その校長は、テレビ出演の際、二度ほど観た「睡眠研究」で世界的功績を上げた柳沢正史教授をやせ型にしたような風貌だ。

 と、ここで目が覚めた。

 何とも奇妙な夢である。

 

 

 柳沢氏は睡眠中の夢について「近い将来起きるかも知れない危機的状況のシミュレーションをしているという見方もあるが、夢そのものの分析が困難なので全く明らかになっていない」という意味のことを話しておられた。危機的状況のシミュレーションというのは一理ある。

 しかし、私は(以前にも書いたが)かつて「NHK 驚異の小宇宙・人体Ⅱ『脳と心』」で示された見解にいちばん納得している。

 つまり、睡眠中は脳の持ち主である本人の意思から脳自体が全く自由になっている。

 その脳の中で、ニューロンという神経細胞同士がそのニューロン同士をつなげるシナプスという接合機能の助けを借りて勝手に遊んでいるという指摘だ。

 日中、ニューロンはお互いに必要としている同士の間でつながり合って様ざまな事態に対処したり、あるいは創造するのが人間である。

 何かを口にして「酸っぱい」と言う感覚が生まれた時に、これまでの経験で得た過去の酸っぱい感覚記憶、しかも現在進行の酸っぱさと酷似した感覚記憶が呼び起こされる。例えば、東南アジア系のある料理を初めて口にする。柑橘系の酸っぱさとは違う酸っぱさである。失礼な言い方だが、調理済みの肉が傷んで酸っぱくなったのを口にした時のような記憶が今のその料理の味覚と結びついてしまうといったように。それがニューロン同士の協力である。

 

 だが、睡眠中は、そもそもつながり合う必要のないニューロン同士が好き勝手につながり合ってしまうのだ。

 例えば、脳梗塞の症状とその後の経過良好の現在を語った誰かの語りを聴いた私の記憶がひとつ。それとは全く関係のない、自分の手の指の本数が変わってしまうという、おそらくジム・キャリー主演の映画「ブルース・オールマイティー」の映像の一コマの記憶がもうひとつ。何の関連性もないのにつながってしまい、睡眠中の疑似経験となるのだ。

 だから、こんな風に夢の内容は支離滅裂であり、背景の時空もでたらめとなるのがふつうである。

 

 

 さて、私のこの奇妙な夢のキーワードの一つは「脳梗塞」である。

 実は、昨日、孫守で会いに行った次女に自分は語っていた。この年つまり前期高齢の世代になると、知人や旧友にやたら脳梗塞が多いということに驚く、と。

 大学時代の一年先輩は、健診の際、脳梗塞が初期段階で見つかり、大事に至らなかった。

 同じ大学の同窓生は、隠れ脳梗塞が数カ所見つかったと言う。

 小中学校時代の同窓生は、何の前兆もなく、酒を飲んだ席から数時間経過した頃に、ある店内でゆっくり崩れ落ちて救急車を呼ばれ、しっかり処置。治療を受けて後遺症はなかったものの、今後、処方された飲み薬は欠かせないことになった・・・などなど。

 

 その数人の事実が潜在意識下でかなりの「脅威」になっていたのだろう。

 私は幸い持病もなく薬は何も飲んでいないし、とりあえず不安はないが、それでも脳梗塞がこれだけ周囲に続くと「脅威」である。

 その他の状況の要素も、それぞれ何の関連性もないのに睡眠中の脳の遊びによって関連づけられたわけである。

 教員時代の記憶、時折蘇る印象深い元同僚の記憶、柳沢教授がNHKの「あさイチ」とテレビ朝日の「徹子の部屋」で語った内容についての記憶、校舎内の様子は木造だったから、もしかしたら私が小学校二年生まで通っていた小学校校舎の記憶かも知れない。まるで関連性のないそれらの記憶が夢の中ですべて関連づけられたのだ。

 

 こうして、脳の生命機能、生理現象(?)を冷静に分析してゆけば、夢は潜在意識だの隠された願望などとは関係ないことは明らかである。

 ましてや、近いまたは遠い未来の予兆だの、日常の自分の身に起こる、または起きていることとの「共時性」だのとも関係ない。そんなことをスピリチュアルだのオカルト風にむすびつけようとすることほど愚かしいことはない。

 強いて言えば、私の夢の中で引っ張り出された記憶の中で、最も強い感情が伴った記憶は「脳梗塞」に関わるものだったというだけである。

 

 

 

 漱石の『夢十夜』や金子光晴の『金花黒薔薇紙』には及びもつかない夢のレベルだが、還暦過ぎの体調管理といった問題とも関連しているので、駄文を弄してみた。

 

 

 

  参考文献 『NHKサイエンススペシャル 驚異の小宇宙・人体Ⅱ 脳と心 人生をつむぐ臓器 記憶』