昨日は午後2時からのバイト初出勤があったので、午前中のひとときだけトライクを走らせた。
向かったのは東秩父村の役場前で、目当ては通り沿いの「奥沢のケヤキ」である。
予習が不十分で、役場の敷地内と勘違いしていたのだが、どう見ても巨木はない。
駐車場から辺りを見回す。あ、あれしかないな。
さて、歩道に乗り上げて停車させていただき、相棒と共に撮らせていただく。
相棒を手前に一枚。
逆に廻らせてもらって相棒を向こうにもう一枚。
これほどの巨木でもまだ樹齢150年とのこと。樹高15m、目通り5.6m。
ここしばらく異形の巨木を拝謁して来たが、こちらもまた然り。
ところで、一昨日はさいたま新都心のビルの一室でバイト先の研修があった。
どうでもいい写真だが、一二枚撮った。
県内の巨木、神木を訪ねる一方で、さいたま新都心の駅を降りると何とも言えない気分になる。
人間がいながら極めて非人間的な空間だと感じる。
もう20年程前のことになるが、「街づくり」をテーマとした本をあれこれと読んでいたことがあった。その一冊のある箇所で、さいたま新都心に関しての記述があった。曰く、「さいたま新都心は人間を最も疲れさせる街である。掲示された案内図のままの景観であること、加えて人目を避けられる空間が絶無であること」・・・。
その頃から、更に高層ビルが増設されているから、ビルの影が奇しくも「人目を避けることの出来る空間」になっていたり、或いは私が研修を受けたビルの隣のビルには、無料の広い休憩スペースがあったりして、それなりに一息入れることは出来ている。
しかし、ムダはほとんどない、機能と効率が人間を従わせる空間であることには違いない。
さいたま新都心に職場がある人たちは一体どんなふうに感性を働かせ、または抑えているのだろうか。
それで思い出したことがあった。
どうでもいい話なのだが、かつての私の様々な職場(転勤は数年ごとだった)で、同僚、部下、上司たちの中には自分の机上に家族の写真を小さな額に入れて置いている人たちがいた。
しかし、私はしなかった。
なぜなら、「機能と効率」の空間に私生活の一端を差し入れても、それは何の気分転換にもストレス解消にもならないからである。それよりはジョークのひとつでも飛ばして周囲と自分が和むことの方に私は神経を働かせていた。
別に自慢話をしているつもりはない。
そういう神経の働かせ方は苦ではなかったし、職場と私生活・家庭は初めから別の時空なのだから意味のないことはしたくなかっただけである。
そうなのだ。
人は最低限の神経は働かせながら、環境に適応し順応していくのだろう。
だから、さいたま新都心で働く時の顔や佇まいと私生活上のそれらとはまるで違うのだ。違わなければやって行けない。
・・・とまあ、何だか、また「機能と効率」の問題、人としての感性のありかたに関わって、あれこれと考えめぐらしてみた。
結論はまるで出ていない。
※参考文献 『神木探偵』、陣内秀信氏の著書の数々