細かな論証などとはおよそ無縁な凡愚の雑感を少々、書いておきたい。
谷川健一については『神に追われて』という一作に酔い痴れ、めまいを覚え、再読三読して来た。しかし、それ以前に挑戦した『日本の地名』は私にはダメだった。一冊そのものがエピソードのてんこ盛りという印象を受けながら読み進めて行ったのだが、途中で放り出した。なぜかと言うに、時間軸が全く示されていないのである。つまりエピソードだけで塗り固められたような叙述としか思えない。
で、しばらく前に思い直して、違う「初心者向け」と銘打った、ある一冊を買って読み始めた。
『神に追われて』とは当然、趣は違うだろうが、今度ばかりはエピソードてんこ盛りという印象では終わらないだろうと予想した上で挑戦してみた。
結果、ダメだった。
お断りしておくが、ダメなのは読み手としての私の方である。
それでも、やっぱりその一冊も時間軸が示されていなかった。そうなると、ある事象について、ひたすらとりとめのないことをとりとめのないままに書かれ、それを延々と読み続けなければならないことになる。ある事象の最新の状況と直近、更にはある時代ごとの、そうしてそれらを総括した上での歴史的変容の過程(「変容が全くない」という分析になるのであれば、それはそれで構わない)がまるで無視されて(?)、書かれたものは始まりもなければ終わりもない叙述としてしか受け止められない。
網野善彦については、著作集を買わなかった。これまで読んで来た単行本とかなり重なるからで、代わりに対談集を買いそろえ、ほぼ読んだ。
で、改めて思うのは若かりし頃の『無縁・公界・楽』などを初めとして、あまりに精神世界に集中しすぎてはいないかということである。中世の「呪術性」がずいぶんと強調されるのである。
言い方を変えれば、数量的な分析があまりにないのである。
たとえば、一つの荘園は一体どれくらいの広さがあり、支配と被支配それぞれ、または合わせていったいどれだけの人口が常に集中していたのか。そこで、「精神世界」はどれだけ共有されていたのか。その根拠は何か。
それらが読んで行っても要領を得ないことが多い。
だから、例えば、古代縄文中期の「三内丸山遺跡」の方が、数量的にも明らかな点がいくつもあり、日々の衣食住も立体的に復元されているから、中世の荘園その他などよりも、はるかに明確なイメージを持てるのである。
挙句、ある対談では「信長はだめ、秀吉もだめ、家康に至っては全然だめ」という類いのコメントがある。正確な引用ではない。対談は放談のままという態にもなるから、その点はまるで追求されないまま終わっているのだが、推測するに「中世の多様性を押しつぶしゼロにまで持って行ってしまったからだめ」ということなのか。
それにしたって、必要なのは評価より分析なのではないか。
網野自身は明確な総合イメージを持てていたのだろうか。
持てていたなら、司馬遼太郎との対談で「黒澤明の『七人の侍』のイメージが強い、国民の中には定着してしまった」云々という、笑うに笑えない嘆き節も出て来なかったのではないか。
なお、「七人の侍」についてのこのテの指摘は全く的外れである。そのことについては、このへぼブログでも触れて来た。
そんないきさつがあって、谷川健一については『神に追われて』以外の著作にはまるでついて行けず、網野善彦については明確で具体的な中世史のイメージをくみ取れないという経験をしてしまったため、敬遠しているというアンバイである。
凡愚なるゆえに中途半端に抱えてしまった不満でもある。