オカルトへの傾斜は何ももたらさない | 恋着、横着、漂着 遊び盛りゆるゆるのびのび60代

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2年早く退職して機能と効率のタガを外すことが出来ました。
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 日曜日、S君と久しぶりに駄弁った。

 で、話題の一つに、私の旧友であり同僚でもあったI氏を取り上げた。実はS君もI氏を知っている。

 S君の開口一番は「オカルトにハマっていましたよね」だった。

 ああ、そうだったのかと私は改めて思った。

 おそらくI氏と近しくなかった彼は、その距離感もあってか、I氏を冷静に見ていたわけである。

 

 そこで、私はS君に、かつてのI氏とその周辺にまつわるいくつかの事実を話した。

 その一つは、当時Mrマリックが登場した頃、彼が本当の霊能者であるとI氏が思っていたことだった。

 また、晩年のコナン・ドイルが「妖精が写っている写真」を信じ、オカルトに没入して行った事実に関わってのことだが、私の方も原資料に基づかない判断ながら子供騙しのトリックにたやすくひっかかったドイルをあざけっていたのに対して、I氏はI氏で同じように原資料には基づかないまま、「ドイルは晩年期に霊的存在への確信を深めた」と判断していたのだった。

 

 そのI氏の直近の状況については何も知らない。二年前にお互い文通が途絶えたままである。

 その二年前の最後の頃のI氏からの手紙に「コロナ禍」に関わってのイチオシ文献とその著者が記されていた。その著者の一冊は、まぎれもなくトンデモ本だった。

 これについても、既に本ブログでは触れた。

 「そのトンデモ本は最後まで要領を得ないんだよ。で、読み進めて行くうちに突然『波動』だなんていう用語が飛び出して来てさ」

 私はS君に言うと、間髪入れず、S君は「波動!?」と一笑に付した。

 S君は農業に従事しているのだが、有機農法の従事者の中にも「波動」を語る手合いがいるそうなのだ。

 

 私の見立てでは、I氏がオカルトに傾倒して行った理由は、I氏自身の内面が空虚だったことに尽きる。このことについても以前に書いた。

 

 オカルトに傾倒する、傾斜する人たちの中には、「とんでもない悟りを得たい」だの「とんでもない境地に立ってみたい」「少なくとも自分は超越的存在に導かれたい、守られたい」だのといった願望が見え隠れする。

 しかし、かなり乱暴な物言いかも知れないが、自分だけトクをしたいだの高みに立ちたいだのといったエゴは、あのオウム事件で少なくとも否定されたのではないか。

 あの信者幹部たちの数人は死刑宣告後の収監中、恐怖ですさまじい発汗と失禁を繰り返していたという。その一点をとってみても、安易なエゴイズム(と断じたい)は成り立たないことが明らかになったではないか。他人を平然と「理知的」に惨殺して行った当の「解脱者」がも自分の死が決定されたことに対しては、静かに受け入れるどころか、死の間際まで恐怖し続けたという事実は、実は彼らが「解脱者」でも何でもなく「小心な卑劣漢」に過ぎなかったことを露呈させてしまった。

 「宗教」とは無関係の、凶悪な殺人犯たちが最期に静かに死刑を受け入れたという数々の事実と比較すれば、彼らの「宗教的」精進は最期に至って自身さえ救えなかったのだった。

 なお、ここでは死刑の是非という問題、オウム真理教が果たして「宗教」と規定出来るのかどうかについては、とりあえず触れない。

 

 スピリチュアルうんぬんについても、それがちっぽけな自己完結、自己満足、自己陶酔に終始しているのであれば問題はないだろう。そのテの「カウンセラー」となって、来談者とのちっぽけな共同幻想、陶酔に終始するのであれば、これも大した問題にはならない。世間の片隅でちっぽけな感情世界に幸福を感じる時に、摩訶不思議なものや幻覚かも知れないものたちと遭遇するだけなら、それは加害者的立場にはむすびつかない。

 そうした自己限定をした上で、しばし、心地よい目まいのひとときでも持つことは、むしろ、単能化したこの社会システムにあっては健全かも知れない。