二人の対談本『自分のこころをどう探るか』の中の最後の章=第四章では、町沢が「うつ病になりやすい性格」について語っている。
一つはすぐ否定的にものを考える傾向、二つ目は対人過敏、三つめが完全主義であるという。
この三つの条件を揃えたある人物を知っている。
その人物は私よりは年上であり、既に退職の身である。その人物の近況を耳にする機会があった。それは、周囲の他者たちに対する全否定と独善的傾向が以前にも増して目立っているというものだった。少しばかり意外だったのは、彼が「症状」を悪化させているらしいということである。
私のかつての印象からすれば、仕事そのものが彼には大きなストレスだった。
その仕事から解放されれば、「症状」は軽くなるとばかり思っていた。もちろん、私の耳に入って来た噂は彼の近況の一部に過ぎなかったから、暮らしぶりは就労時代に比べれば軽やかに気楽になっているのかも知れない。
さて、かくいう私はこうした三つの傾向とは無縁であり、およそ対極にある人間という自覚がある。
しかし、だったら「めでたしめでたし」になるのか?という問題がある。
大概のものに対して否定的には考えない、対人関係ではそもそも他人の目に対する意識過剰なんてものはない。最後に完全主義とはおよそ無縁、(まあまあ、こんな感じで行けているなら充分じゃあないか)と考える。現に職場で毎年おこなわれた「こころの健康診断」チェックでは、私のストレスはゼロに近かった。ストレスを解消する術を心得ていたという自覚もある。通勤電車内の読書や「書き殴り書き捨て」ノートの活用もそうであったし、休日のトライク・ソロツーリング、オタク趣味への埋没もそうだった。
では、それなら問題は何もないのか、ということなのだ。
それで思い出したのだが、「自分の機嫌をとろう」というキャッチフレーズにしばらく前に出逢った。
あるミュージシャンであり芸能タレントである人が語っていたもので、何とも合点のいくフレーズだった。自分がうつになったりしないように、自己否定に走ったりしないように、自分で自分の機嫌をとる、面倒を見るという心の働きは今時、実に重要なのではないか。自分の機嫌をとってくれる最も身近な人間は自分なのだ。
さて、問題を戻す。
私のような、これまでうつになったことはない、これからもなる可能性は低いと思われる人間であっても病むことはあるのだ。
今時の生産性最優先、機能と効率という社会の力のベクトルによって、である。
「単能化した社会」は、一見、うつとは無縁の人間に対しても牙をむくのである。そもそも「単能化した社会」が深く深く病んでいるのだから、それは当然なのだろう。
ならばどうするか。
私はここで「単能化した社会」システムから、あるべきシステムへの転換を論じるつもりはないし、そもそもそんな力もない。
凡愚の私は、凡愚としての我が身と心のありようを深く深く掘り下げることしかないのだろうと思う。
「天才は時代の病を引き取るようにして病む」という意味のことを言ったのは河合隼雄だった。ついでに言えば、いたずらな持論の一般化と権力との密着ぶりを露呈した最晩年の河合隼雄は無惨だった。私は愛想が尽き、以降、嘲笑の対象になって行った。しかし、唯一この指摘については学ぶものが多い。
ここで付け加えさせてもらえば、天才でも何でもない、凡愚の私でも、この身と心は時代を映す鏡になりうるはずなのだ。
ただし、分析的に語るのは更に愚かなことになりそうだ。
「単能化」されていない人生を謳歌すること、その愉しさ、悦びを有体に語って行くべきだろう。
凡愚に終始するにしても、そうした個の主張をし続けて行くべきなのだろう。
淀川先生は「映画はリクツで観ちゃダメ。もっと感覚で楽しまないと」と語っておられた。それは人生そのものにも当てはまるものなあと凡愚の私は痛感するのである。