『吉沢京子 写真集』   | 恋着、横着、漂着 遊び盛りゆるゆるのびのび60代

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2年早く退職して機能と効率のタガを外すことが出来ました。
人生をゆるゆるのびのびと楽しんで味わって行きたいと思う60代です。

 

 何冊かの画集とともに写真集もまとめて置いている。

 そのうちの一冊である。昨年の今頃、そこそこの値だったが買った。何もこの期に及んで隠す必要もない。ヌード写真集である。

 これまで、ヌード写真集は数冊買って来た。しかし、ただあけっぴろげに脱いでいる写真集、あるいはただの彫像が写されただけのような写真集はすぐ飽きてしまい、最近になって処分してしまった。

 本書は捨てない。

 しかし、意外にも、私が最も魅かれたのは、この表紙の写真だった。

 この女優さんのこの瞳の色の奥深さはどうだろう。やや内気な、カメラマンへの警戒心とこれからのひととき被写体となってゆく覚悟、決心めいたものとが混然となって、すでにひとつの物語が豊かに始まっている。

 残念ながら、この衣装での撮影は他にない。

 これだけの瞳を向けてくれたなら、一読者、ファンの自分は、とにかく脱いでほしい・・・・とは思わない。背中のラインだけでも充分である。ただし、表情の深さを追ってみたくなる。この点でも残念なのだが、中の幾多の写真の彼女はとても無邪気で明るい。

 無邪気で明るいのでは、つまらないのである。

 (こんなことを大真面目に論じる自分も愚かしいことこの上ないのは承知のつもりだ。)

 

 天然の裸体で陽光の下で遊ぶ彼女と、この表紙の表情の彼女はすぐに結びつかない。

 撮影、発行はすでに遠い過去であり、こんなことを言っても無いものねだりに過ぎないのだが、まぁあえてエロを大真面目に主張させてもらおう。

 衣服をまとったままでもいいから、彼女が一人の(架空の、という風になるのだろうが) 男性との情交の前と後とをイメージさせるような、陰影の勝った写真が、表紙からの物語のつながりとしては、ふさわしいのではないだろうか。

 

 そう、改めてエロに関わって駄文を弄する中で気づいたのだが、写真集はひとつの物語としての説得力を持つものかどうかで価値が決まるのだ。