幼少期と中高年期の典型を描いた映画は・・・・・ | 恋着、横着、漂着 遊び盛りゆるゆるのびのび60代

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 清水義範の『映画でボクが勉強したこと』には少年期と老年期を描いた映画の紹介がある。

 少年期は「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」を、老年期は「黄昏」「八月の鯨」を取り上げている。私もこの三作を観た。「八月鯨」のみ劇場でなく、レンタルビデオだった記憶がある。

 本書が書かれた約30年前もビデオの時代だった。映画館でなければDVD、または配信がらみで観る時代の今、改めて清水さんに映画論を一冊書いてほしいと思う。

 

 ところで、それぞれの世代を描いた映画という意味で言えば、本書は幼少期と中高年期についてまで言及していない。

 そこから先は自分で考えてみた。こんな風に、ついでに考えさせてくれるという刺激性が本書にはあるということだ。

  で、幼少期については、スペイン映画の「ミツバチのささやき」にとどめを刺すのではないか。

 中高年期については、ジャック・ニコルソン主演の「ウルフ」が典型である。

 

 「ミツバチのささやき」はすでに伝説化した映画である。

 フランコ独裁政権が尚も続いていた時代に撮られた。隠されたメッセージをめぐってはすぐれた分析も読んだ。しかし、カルト・ファンたちはそうしたメッセージとは関係ない観方をしているらしい。もちろん、そのことに文句などつけるつもりはない。私も同じような観方をして来たし、今もしている。

 というのも、この映画は幼少期独特の危うさ、不可解さを実に見事に表現しているのだ。一人の少女の内界と外界、その相互浸透性という辺りが繊細に描かれる。「精霊は実在する」と姉に言われ、やがてそれを信じ、幻想の世界に遊ぶようになる少女は見ず知らずの兵士にも遭うし、映画で衝撃を受けたフランケンシュタインにも遭う。

 これらをすべて大人の目線で分析的に語らず、少女自身の目線で見続ける手法は他にはないように思う。この映画の後に同じアナ・トレント主演で撮られた「カラスの飼育」は、大人の目線が至る所に入り込んでしまっていて、ガッカリしたという記憶がある。

 尚、アナ・トレントは成人後も俳優として生きている。「ミツバチのささやき」のビクトル・エリセ監督は、主役の子どもを選ぶために出かけた幼稚園の砂場で、独り遊んでいる内気な彼女に魅かれたと語っている。外交的でなかった彼女が俳優を職業に選び、続けていることに私は改めて感銘を覚える。

 

 

 さて、中高年期の典型映画「ウルフ」は、これまでも好き勝手に紹介して来た。

 しばらく前、好きな場面をそのまま英語で暗誦し、今でも時々、独り演じて自己満足の世界に浸っている。

 何がどう典型なのか。

 左遷の憂き目に遇い、それを受け入れざるをえない主人公。そのまま、ただ体力意欲とも減退してゆくのであれば、淋しい初老の男が人生を半ば諦め、姿を消してゆくだけの映画で終わる。

 しかし、彼はオオカミに噛まれたことがきっかけで、人生の情熱を取り戻す。いや、取り戻すどころか、かつてないエネルギーが彼を包む。智謀により、出し抜いた部下をでくのぼうにし、嫌味交じりに左遷を告げた会長に一泡吹かす。

 情熱、エネルギー、発揮される知力・・・。

 おそらく中高年の男たちが、自分の心身の衰えを実感している日々であるなら、この映画に強い共感を抱くはずだ・・・と私は勝手に思う。

 スタントマンが直ぐばれてしまうだとかCGがチャチだとか、そうした欠点はこの映画のメッセージ力の前に、どうでもよくなる。

 あらゆる現実を受け入れて順応してゆくしかないのが大方の中高年の悲しさである。

 それらすべてを跳ね返し、情熱の赴くまま突き進んでゆく。主人公は最後にオオカミに変身し切って、人間の世の中と縁を切ることになるのだが、それはこれまで忘れ去っていたままの野生を我が物とすることを意味しているわけで、観ているこっちは「そうだよな、オオカミにならないにしても、野生性って必要だよな」なんて思うのだ。「それが幸せじゃんか」と。

 

 まあ、そんなわけで、幼少期と中高年期の典型映画二本を好き勝手に語ってみました。