前回、ショーン・コネリー演じたジェームズ・ボンドに関わって、清水義範の『映画でボクが勉強したこと』を少しばかり紹介した。で、失くした文庫版も改めて注文した。記憶によれば南伸坊のイラストがすべて載っていたからである。ただし、記憶が正しかったかどうかは分からない。30年ほど前の本でもあるし、そこまでの本の紹介を目に出来ないから仕方ない。
本書は数年に一度、手に取り、パラパラと気分次第で再読する。
私にとって再読、再再読率で言えば高い方の本である。あれこれの映画に関して様ざま教えられもするし、「その通り!」と膝を打ちたくなるような指摘もある。「アラビアのロレンス」など本書をきっかけに観た映画もある。
で、今日、通勤電車の中で特に拾い読みして、考えてみたくなったのは「未来惑星ザルドス」という映画についてである。
監督はジョン・ブアマン。三船とリー・マービン二人しか出てこない「太平洋の地獄」は良かった。ただし、私は清水の紹介する「エクソシスト2」だの他のブアマン作品は観ていない。
「未来惑星ザルドス」は「結局、分からない」と清水は書いている。
そのくだりを読んだ数年前、私もかつてテレビの深夜に放映されていた吹替え版を観ていたことを思い出し、(うん、確かに何だかよく分からなかったな)と同感し、DVDを買って観たのだった。分からないので、ブアマン自身が小説化した翻訳本も買った。しかし、小説の方はしっかり読まないまま処分してしまった。
今、改めて思い出しながら愚考してみるのだが・・・あ、その前にアニメ「ルパン三世VSクローン人間」には、この映画もオマージュも込めてワンカットがパロディとして使われていた。賢人の巨大な顔が宙を飛んでくるというカットである。ついでに言えば、「この映画も」と書いたのは、「激突」や「2001年宇宙の旅」もパロディとして引用されていた。たぶん、他にも引用されていた映画はあるのだろうが、浅学のため不明である。
さて、「ザルドス」なんだが、「賢人の巨大な顔が宙を飛んでくる」という意味が不明と清水は指摘する。
そうかなあ。
案外、ブアマンという監督は、言いたいことは一つなんじゃないだろうか。賢人は古代ギリシャの哲学者や歴史家のようで、つまりは「人間をつまらなくした始まりは、こいつらだよ」とブアマンは言いたいんじゃなかろうか。
で、この映画は「文明が高度化し、人間同士が監視・管理・相互支配し合うシステムに依存すればするほど、個人としてのヒトは不幸に陥り、生命力も意思も意欲も失っていく」という皮肉を描いているんではないかな。
だから、「太平洋の地獄」はその逆で、太平洋戦争末期頃と思われる時期にあって、無人島に流れ着いた二人の兵士は、文明のシステムに依存できない環境下でいがみ合い、お互い疑心暗鬼にかられるが、やがて原始的なレベルでヒトとヒトとの信頼を築き合い、無人島を抜け出していくのだ。しかし、その先には文明の利器つまり最新兵器のひとつが彼らを待っていて・・・となるのである。
未見の他のいくつかの映画も、言いたいことはその辺にあるような気がする。
「ザルドス」の結末は、だから、とても素朴なのだ。
ヒトとして当たり前の個人、男女であることを取り戻したコネリーとシャーロット・ランブリング演じる二人が、普通に暮らし、やがて子が生まれ、その子が自立し、家を出て行く。母親のシャーロットは引き留めるが、「好きなようにさせてやれ」といった風にコネリーは妻である彼女に意思を伝える。ここでコトバは交わされない。交わされなくとも一瞬で観ている者には分かる。
やがて二人は老い、死んで骨となり、その骨も風化していく。
これが普通の、当たり前のヒトとしての幸せだろうが。そういうことに気づかない未来社会や今時のお前らは愚かだとは思わないかね?
この映画はそう言いたいんじゃないんだろうか。
「ザルドス」とは、廃墟と化したかつての図書館で、コネリー演じる主人公が読んだかチラ程度だったかした「オズの魔法使い」のタイトルを飛び飛びにして読まれてしまったデタラメ言葉で、暗号でも何でもない。「オズの魔法使い」に暗示された何とか・・・があるわけでもないのだろう。ブアマンのシャレなのだと思う。だから、たぶん、この映画をより深く理解しようとして「オズの魔法使い」を読んでも、何にも出て来ないだろうなあ。
そういう、一見テキトーな仕掛けがありつつも、言いたいことは案外、シンプル、率直というのが「ザルドス」だ、と・・・そういう結論に今のところ、落ち着いている。