第四巻で完結したうちの第三巻は、一二巻以上に、冷遇され貶められた人間が主体的に状況を切り開く姿が描かれる。
登場人物たちに「よくぞやった」とエールを送りたくなる。
しかし、第四巻に至ると、作者自身が「猫好き」のためなのか不明だが、「猫話」に終始してしまうのだ。しかも、スケール感は落ちる。
もう最後には、作者はすべてを猫に託しているかのようにさえ思えてしまう。
これは一体どういうことか。
人間の業を描くあまり、作者自身がそこから距離を取りたい。軽みを感じたい、そのために人間たちとは、そもそも距離感のある、我が道をゆく猫たちになりたいと思い始めた、その結果なのだろうか。
この境地、人間に対する距離感が、幼少期の継父から受けた虐待の対象化というやつなのだろうか。
まぁ余計なお世話かも知れないし、勝手読みである。
それで、連想したのは藤枝静男の小説群である。
藤枝は何かに託すことをしない。
徹底して、自身という「個」を問い詰め、突き詰める。
だから、そこまで行かない花輪の漫画は弱い又は中途半端だというつもりはない。
ただし、藤枝の肚は座っている。強い、と思う。
いずれにしろ、花輪にしても、この四巻分の中で語っているのは自身のことなのだ。
・・・などと、えらそうに新発見でもしたかのような物言いだが、それはそれで当然のことなのだ。『みずほ草子』に登場する、他人を貶め騙し辱めて来た人間は復讐などされなくとも、その本質的な業により、やがて自縄自縛、地獄へと堕ちる・・・というメッセージを読み取ったのは私であり、それは私自身の心情と境地を語っているということなのだ。