1巻に続き、今日、通勤電車内で読んだ。
一見、怪異を描くかのように見えながら、そうではない。描くのは人間の業である。
同じ怪異に取材しながら、諸星大二郎の世界とは似ても似つかない。
話の最後には、急逝した父親が実は借金まみれであったことが分かり、一切を失ったその息子が登場する。怒りと絶望と恨みとで、彼は先祖代々の墓石を砕き、「家」と完全に縁を切る。そんな仕打ちをご先祖様方に対して、やったところで彼に祟りなど降りかかっては来ない。
雨露さえしのげぬ暮らしに陥った、その大元は亡父なのだから、裁かれるのは亡父の死後なのかも知れない。
この巻の登場人物たちは、魔の仕業と言われるもの、神がかりと言い伝えられるものに恐怖を感じない。むしろ、近しさを感じているようだ。それだけ、今、生きている境涯の過酷さがある。
その過酷な境涯にとどまることを拒み、彼ら彼女らの中には、新たな人生の選択をしてゆく者が現れる。
その姿は清々しい。
これは花輪の自画像のようにも見える。
・・・などと、また好き勝手な解釈を入れたくなる。
花輪和一という漫画家、物語作家が本書を通して、新たな実人生に向かっていることを吐露しているように思えて来るのだ。
かつての虐待を継父から受けた過去から、花輪はかなりの距離の地点にいるのじゃないだろうか。
少しばかり想像するが、過去の理不尽な境涯はそれでも完全には消えないはずで、とすれば、魔だの神だのに恐れおののくような感情に傾くことなどありえないだろう。
だから、人間を見なければ、リアリストの眼で人間を見ようとしなければ、何も分からないままだ。
主人公の少女は第一巻と同じだ。子どもではあるがリアリストとして生きている。当然、大人の所業もリアリストの眼で見る。それでも「分かんない」と言う時がある。そう言う少女に「今は分からなくてもいい」と近しい大人は言う。
いずれ分かる時が来ると。
このやりとりは、何とも教育的である。
子どもがすべてを分からなくても大人は話す。子どもにとって、それは、これから大人になっていく時のテーマとなりうるだろう。同時に、話す大人の存在価値、教育的価値が試されてもいるのだ。何もひっかからない、又は、その時は引っかかったとしても、しばらくしたら忘れられてしまうような大人だったのか、話だったのか。そうではなく、いつまでも忘れられない大人、話になってゆくのか。
少女にとって、この物語のひとつひとつは後者になるだろう。そうして、少女は彼ら大人の話に育てられてゆくのだろう。