194.「基台を造るのをどう援助したら良いのか、彼らは知りませんでした」 | 御言 missing link

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 イエス様はアダム家庭を復帰しようとされましたが、地上に神様の血統を残すことはできませんでした。
 今、私達は原理講論や文先生の御言を通して、イエス様の語られた内容の真意をほとんど理解することができると自負していると思いますが、文先生の御言に対してはどうなのでしょうか。
 次に提示する御言は、文先生が神学校の学生に対して語られたものですが、その中で文先生は、その内容は今から二千年後の人々のためのメッセージでもあると言われ、さらに、食口たちが理解できないのは、二千年後の聴衆に向かって話しているのだから当然なのだと語ってられます。
 文先生の御言には、神学校で学ぶ学生でも理解できない内容が含まれているようです。
「だったら誰にもわからない。理解しようとしない方がいい。」
 と考えるのはあまりに短絡的だと思います。
「今は理解できなくても先生は責めない」
 とあらかじめ許しを与えてくださっているのであって、私達が理解しようとしなくてよいという話ではないと思います。
 大体、「真のご父母様」と敬いながら、つまり親として敬いながら、一方では、語られたお話の内容には関心がない、真意など理解しようとする必要はないというのは、矛盾しています。いえ、それ以前に真意を知りたいと思わないところに既に矛盾があると言えるでしょう。
「愛する人が何を言いたかったのかなんてことに、関心はない」
 ということになるのですから。
 くどいですが、「理解できる・できない」、「理解する必要がある・ない」ではなく「理解したい」という気持ちが先行するというのが本来の親子関係から生じるべきことなのではないでしょうか。

「皆さんは先生のために働くことにどれほどの栄光を感じているのですか。イエス様のために働いた弟子達はどうでしょうか。イエス様の時、人々には受ける器がなかったのでイエス様は原理を教えることができませんでした。弟子達は教育を受けておらず、何も分かりませんでした。彼らはただイエス様の中に何かを感じ、従って行こうと努力したに過ぎませんでした。イエス様が基台を造るのをどうやって援助したら良いのかすら、彼らは知りませんでした。彼は孤独の中で亡くなりました。全く孤独でした。
 ペテロが第一弟子でした。彼は無教育な一漁師で原始的な人間に近かったのですが、今誰もが彼を聖人として崇めています。皆さんは神学校卒業生ですが、ペテロよりも劣った人間になるつもりですか。もしイエス様が一箇所でもいいから『真の父母』という言葉を聖書に残しておいてくれたならば、先生はこれほど苦しまなくてもよかったでしょう。
 もしイエス様が聖書の中のどこかに少しでもいいから人間の堕落について、どうやって堕落が生じたのか、どうやって罪が侵入したのかを教えていたならば、先生はこれほど苦しまなくても済んだはずでした。今日、二千年経って全く新しいメッセージがやって来ました。今、先生は人生のあり方を教えています。人々は先生のメッセージを読むのですが、そのメッセージは今から二千年後の人々のためのメッセージでもあります。彼らは理解できるというだけでなく、彼らの『血と汗』、彼らの生き方となるものなのです。そういう基準で先生は教えています。
 そういうことを皆さんは考えたことがありますか。『ああ、お父様はいつもおかしなことを言ったり、教えたりされる』と皆さんはよく言うのですが、先生は二千年後の聴衆に向かって話しているのだから、それは当然なのです。『働き過ぎて、使命の途中で死ぬことがあっても自分は後悔しない』と先生は思っています。皆さんはどうなのですか。そういうふうに皆さんは考えているのですか。そういう決意を皆さんは持っているのですか。
 分かりましたか。特に神学校卒業生の皆さんは分かりますか。皆さんには特権と責任が与えられています。先生は皆さんにこのムーブメントのための記録を樹立し、その記録を付けておいてもらいたいと思います。先生が行かなければならない時がやって来ます。そうしたらその後皆さん一人一人、自分の『使徒行伝』を記録すべきです。皆さんは神様の目から見て大きな負債を背負っています。三年間、先生は神学校に特別の注意を払って来ました。ほとんど毎日そこへ行きました。そして細かいこともほとんどすべてにわたって先生が気を配りました。時間があれば必ず、先生は神学校に行きました。しかしその三年間も終わり、神学校についての先生の使命も完了しました。
 先生は皆さんに対して無責任だったことは一度もありません。しかし、皆さんはオーシャン・チャーチにもカープにも無責任です。自分の使命について何も考えないならば、神様は皆さんを指導者としては認めません。まず何でもやりたいと思うことをやってそれから自分の使命について考える、そういうことは先生は認めません。神様も認めません。一日24時間、先生は使命のこと以外に何も考えません。」
(み旨と海 P240~241「なぜオーシャン・チャーチが必要なのか」)

 文先生は、
「もしイエス様が一箇所でもいいから『真の父母』という言葉を聖書に残しておいてくれたならば、先生はこれほど苦しまなくてもよかったでしょう。」
「もしイエス様が聖書の中のどこかに少しでもいいから人間の堕落について、どうやって堕落が生じたのか、どうやって罪が侵入したのかを教えていたならば、先生はこれほど苦しまなくても済んだはずでした。」
と言われ、さらに
「人々は先生のメッセージを読むのですが、そのメッセージは今から二千年後の人々のためのメッセージでもあります。」
 と言っておられます。また、
「彼らは理解できるというだけでなく、彼らの『血と汗』、彼らの生き方となるものなのです。」
 とあります。二千年後の人々には、文先生の御言の真意はわかるようです。
 だからといって、今の私達が全くわからなくていいというわけではありません。
「彼らはただイエス様の中に何かを感じ、従って行こうと努力したに過ぎませんでした。イエス様が基台を造るのをどうやって援助したら良いのかすら、彼らは知りませんでした。」
「皆さんは神学校卒業生ですが、ペテロよりも劣った人間になるつもりですか。」

 という部分に、完全な理解は二千年先だとしても、それでも私達の理解の枠がより大きくなることを願う文先生の気持ちが表われていると思います。
 ただし、この「二千年」という数字にはこだわらない方がいいかもしれません。私達食口がイエス様のみ言葉や聖書の真意を理解することができる(?)のは、文先生が現れたからであって、私達が自分で理解したわけではありません。自分で理解したつもりでいますが、理解させられたと言った方がいいでしょう。それと同様に、文先生の御言を理解するのにも、摂理的な時があると考えられます。その時がくれば、最終的に理解する人々、いえ、理解させられる人々が現れるということなのではないでしょうか。それは、すなわち、真のアダムが現れる時と言えるでしょう。
 文先生は、イエス様が残された基台の延長線上に立たざるを得ない立場でした。イエス様は、三天使長 (ザカリヤ家庭、ヨセフ家庭、洗礼ヨハネを中心とする十二支派)の基台によって形成される天使長圏を失った立場から、自分自身が天使長の位置に立ち、自分を中心としてもう一度天使長圏を復帰しなければならない立場に立ちました。そのイエス様の立場を文先生は、イエス様が天使長の位置に立つとか洗礼ヨハネの使命を兼ねるという表現を使って説明されました。
 イエス様が天使長の位置に立つという御言には、イエス様自身がアダムを迎えるための環境を準備するようになるという意味が含まれています。この内容には、2000 年かけてヤコブの子孫を中心として造られるべきであった国家的基台を復帰する立場に立つという意味も込められています。ところが、十字架を越えて、霊的真の父母の位置に立ったイエス様は、蕩減復帰原則から見れば、国家という基台を失ったので、より大きな世界的基台を造成して再臨主を迎える立場に立たなければなりませんでした。
 霊的真の父母の位置に立ったイエス様は、神の位置に立っていたとも言えます。そして再臨主が真の父母として来られるとき、霊的真の父母の位置に立つイエス様はあえて言うならば偽りの父母となると言えます。私達食口は、真と偽という言葉に対して、善と悪という言葉を当てはめがちですが、文先生の御言の中で使われる善と悪の概念は、相対的な関係と捉えた方が良い場合が多いようです。
 愛の完成には必ず二性性相が必要であり、愛は対象を通して完成するようになります。この観点に立てば、アダムを中心とする真の愛が現れる前には、必ず天使長を中心とする愛が現れるわけですが、その愛はアダムの真の愛が現れるようになれば、偽りの愛という立場になります。そのため、文先生の御言の中における悪と善の視点は、時間的な前後という視点に置き換えて考えた方がよい場合があると言えるでしょう。
 文先生と真のアダムとの関係にも同様の構図が当てはまるのではないでしょうか。

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