117.「イエスと共に一人の女性を再創造しなければならなかったのです」 | 御言 missing link

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 次は、イエス様の新婦について語られた文先生の御言です。

「では、マリヤはどのようにしなければなりませんでしたか。端女たるマリヤは堕落したエバの立場で、自分の継代(注:後継ぎ、あととりのこと)を通して堕落しないエバをつくるために、あらゆる精誠を込めなければなりませんでした。イエスの結婚に関心を持たなければならなかったのです。ところが、マリヤはガリラヤのカナの宴会の席に参席し、そこに来たイエスに『ぶどう酒がなくなりました』という話をしました。すると、イエスは、『婦人よ、あなたは、私と何の関係がありますか』と言いました。『あなたと私は何の関係があるか』と言うのです。他人の家の宴会が何の関係があるか、私の宴会はどのようになっているかというのです。
 先生がこのような族譜(注:イエスの系譜を示す)を掘り起こして、悪口を言う必要はありません。しかし歴史を正し、伝統を正さなければならないため、不可避なのです。そうではないでしょうか。イエスが死ぬようになったのは、結婚することができなかったためです。結婚していたならば、どうして死ぬことがあったでしょうか。
 マリヤは全身全霊を込めて女性を再創造しなければなりませんでした。マリヤは女性です。マリヤは僕としての女性の中で代表的立場であるために、僕圏内にいる女性を全部動員しなければなりませんでした。三人以上動員しなければなりませんでした。三位基台を立てなければなりません。そのように動員して、お互いが協助しなければなりません。
 イエスの親戚の中で娘がいるか捜して見て、娘がいれば彼女達を集めて基台を作らなければならなかったのに、それができなかったのです。イエスの親戚の中で誰がいましたか。洗礼ヨハネの妹がいたならば、どれ程良かったでしょうか。洗礼ヨハネの母は、マリヤがイエスを宿した後、世話をしてくれました。イエスが胎内にいる時から歓迎しました。それ故、洗礼ヨハネの妹や親戚関係の八親等内に娘がいたならば、洗礼ヨハネの母とマリヤ、そして姉がいたならば、その姉と三人が一つとなって、イエスより年が若いその親戚の娘と因縁を結ばなければなりませんでした。イエスと共に一人の女性を再創造しなければならなかったのです。
 もし洗礼ヨハネの妹がいたならば、幼い時から、イエスが東に行けば東に付いて行きたいし、西に行けば西に付いて行きたい。付いていかなければ、『私は死ぬ』という程にイエスを思うようにしておかなければなりませんでした。そうであれば、誰が来てもどうにもならないのです。そのような女性は、今まで信じることができる特別な氏族の中から出て来なければなりませんでした。それは、どのような氏族でしょうか。洗礼ヨハネの家庭とヨセフの家庭です。ヨセフの家庭には、ヨセフの従姉妹もいたでしょう。
 神は、イスラエルの国ではユダヤ教が中心であり、ユダヤ教の中でもヨセフの家庭(氏族)が中心であり、ヨセフの家庭(氏族)の中でも、洗礼ヨハネの家庭が中心であることを知っておられました。それ故に、その家庭は最も重要な血族でした。祖先の中の種がいいというのです。神は、イエスを見込みのある家門から見ても、名門である家門を通して生まれるようにされました。また、洗礼ヨハネの家庭を見ても、洗礼ヨハネをエリサベツが身ごもった時、祭司長をしているザカリヤが啞になったのをみると、族譜、即ち家門がいい家だということが分かります。それ故に、それ程良い従姉妹圏内からイエスの相対者を得たならば、神は嫌がったでしょうか、喜ばれたでしょうか?
 イエスの相対は他のところから取ることができません。自分の直系の従姉妹の妹、従兄弟の姉妹からしかありません。血統が異なっていてはいけないのです。
このように従姉妹を通して事が良く運んでいたならば、どのようになっていたでしょうか。イエスに惚れて、『イエスでなければ自決したい。イエス以外の人の嫁に行きません』と言う、そのような妹がいたならば、どのようになったでしょうか。イエスが死ぬ時に『私も共に死のう』と言って付いて来る女性がいたならば、どのようになったでしょうか。そういうことを考えてみたことがありますか。
 ペテロ、ヤコブ、ヨハネのような主弟子も皆逃げてしまったのですが、一方的に慕う一人の女性が出て、『彼が死ぬのならば、私も共に死にたい』と言う妹がいたならば、どのようになっていたでしょうか。そうであったならば、イエスは昇天することもなかったのです。イエスが昇天しなかったならば、キリスト教は虐殺されなかったのです。そういう事実を見ると、非常に重大なのです。
 この地上に神の王者が来られたのに、男性達は天使長の立場であるために逃げたのですが、彼の相対者として残るべきエバの群れ、夫が行くべき道を貞操を持って守ることのできる一人の女性、片思いでもすることのできるそのような女性がいたならば、どのようになったでしょうか。皆さんはこれを考えてみましたか。
 イエスは死んだとしても、神の前に栄光を返すことができました。また、死の場においても、『あなたはこの地上で愛することのできる一人の人を捜したのではないでしょうか。私に味方し、私を愛して死んでいった、か弱い女性をかわいそうに思ってください』と言って、恵みを施してあげることもできるのです。
 イエスは死の道、黄泉の道においても寂しくなかったのです。地獄に行ったとしてもペアで行ったでしょうし、楽園に行ったとしてもペアで行ったでしょう。だから寂しかったでしょうか。寂しくなかったでしょうか? そのようになっていたならば、聖霊は何のために送りますか。聖霊を送る必要がありません。そのように成すことができない運命であったので、聖霊を送ったのです。父の神であるイエスは天に行ってしまい、母の神である聖霊は地上に降りて来ました。離別が始まったのです。そのような女性がいたならば、昇天は必要なかったのです。地は子女を直接保護するために、そのように死ぬことはないというのです。」
 (祝福68号 P155~157 根本復帰 前編 1970年12月1日 江陵教会)

 マリヤの使命は、イエス様を産むことで終わるものではありませんでした。特にイエス様の花嫁を準備することは、その後のマリヤにとって、最重要な使命だったと言えます。文先生は、その花嫁は、洗礼ヨハネの妹だと語っておられます。

「イエス様が結婚しなければならないと言いましたか、結婚しないようにと言いましたか?(「結婚しなければなりません」)。だれと結婚しなければならなかったのですか?(「洗礼ヨハネの妹です」)。腹違いの妹と結婚しなければならないと言うのです。そのような者がどこにいますか?」 (ファミリー 97/6 P20 第38回「真の父母の日」記念礼拝の御言 1997年4月7日 中央修練院)

「イエス様がヨセフとザカリヤの家庭を中心として、氏族メシヤ圏において勝利すべきだったのに、洗礼ヨハネが侍ることができなかったのです。洗礼ヨハネがカインの立場であり、イエス様がアベルの立場なのです。堕落の時に、カイン圏天使長がアダムの妹を奪っていったので、蕩減復帰原則によって、アベルが洗礼ヨハネの妹を奪ってこなければならないのです。なぜそれができなかったかというと、親族関係で結婚することは、ユダヤ教が、イスラエル歴史が法的に歓迎しなかったからです。
 このように、親近関係が最も近づいた歴史的な一時があったのです。今日のアメリカも、最後の終点期を迎えて、そのようになっているのです。そこで方向を天に変えるべきなのに、サタンに引っ張られていって、今日フリーセックスになり、破壊圏に落ちてしまったのです。そこからいかに回るか? それには原理を知らなければ回れません。今や家庭が恐ろしい所です。家庭を中心としてすべてを失ったので、再び家庭を中心として、すべてを探してこなければなりません。」
 (ファミリー 93/9 P29 日本人特別修練会における御言 1993年4月16日 ベルベディア)

「堕落は16歳で行われたので、イエス様は新しい年を迎えて、17歳で結婚についてマリヤに話したのです。
 17歳の時に結婚で行くべき道を説明し、10年後の27歳で説明したのです。また、3年後に3回説明してだめなので、涙を浮かべてイエス様は出家をしたのです。
 だれがイエス様の相対にならなければならないのでしょうか? それが洗礼ヨハネの妹です。サタンが汚した血統は完全に切ってしまうのです。完全になくなるのです。」
 (ファミリー 97/3 P31 第14回「愛勝日」の御言 1997年1月2日 サンパウロ)

 さらに、文先生は、マリヤが、イエス様の花嫁を準備するためには、3人の女性の基台が必要だったと言っておられます。

「もし知っていたならば、親戚の妹に接近し、御旨を教えてあげたのではなかったでしょうか。事実、当事の事情で、イエス自身がそうすることのできる立場でもなかったのです。腹違いの息子として生まれたという噂の故に、そうすることのできない立場でした。それを、母であるマリヤと洗礼ヨハネの母、そしてその姉かあるいは従姉妹等の、三人の女性がしなければならなかったのです。そのように、三人の女性が一つになっていたならば、間違いなく成すことができたのにこれができませんでした。」 (祝福68号 P158 根本復帰 前編 1970年12月1日 江陵教会)

 3人の女性の基台とは、マリヤとエリサベツ、そして姉の位置立つ女性の3人とのことです。
 ところで、最初の御言の中ほどに、
「もし洗礼ヨハネの妹がいたならば、幼い時から、イエスが東に行けば東に付いて行きたいし、西に行けば西に付いて行きたい。付いていかなければ、『私は死ぬ』という程にイエスを思うようにしておかなければなりませんでした。」
 とあります。
上で述べた3人の女性が、その花嫁となるべき女性を、幼いときからイエス様のそばにおいて、 
「イエスが東に行けば東に付いて行きたいし、西に行けば西に付いて行きたい。付いていかなければ、『私は死ぬ』という程にイエスを思う」 
 よう教育していかなければならなかったということになります。幼いときからイエス様のそばにおいてということを、
「イエスと共に一人の女性を再創造しなければならなかったのです。」 
 と言っておられると理解することができます。そして、これがメシアの花嫁の再創造ということだったようです。
 これは、完全な相似形ではないにしても、本質は再臨の摂理においても、同様だったはずです。 上の御言の中で述べられているのと同様な女性が、文先生のときにも準備されていたのではないでしょうか。該当する部分の、「イエス様」を「先生」に変えて読んでみます。

「幼い時から、先生が東に行けば東に付いて行きたいし、西に行けば西に付いて行きたい。付いていかなければ、『私は死ぬ』という程に先生を思うようにしておかなければなりませんでした。」

「それ故に、それ程良い従姉妹圏内から先生の相対者を得たならば、神は嫌がったでしょうか、喜ばれたでしょうか?
 先生の相対は他のところから取ることができません。自分の直系の従姉妹の妹、従兄弟の姉妹からしかありません。血統が異なっていてはいけないのです。」
 

先生に惚れて、『先生でなければ自決したい。先生以外の人の嫁に行きません』と言う、そのような妹がいたならば、どのようになったでしょうか。」 

 しかしながら、イエス様のときと同様、早い段階にその摂理が崩れてしまっていたのではないでしょうか。そうであれば、その摂理は三代圏の中で次の代に移行された可能性があります。そして、その際文先生には○○○○の役割を担わなければならなかった期間があったのかもしれません。

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